鎌倉好き集まれ!十六夜さんの鎌倉リポート・第20号(2010年2月10日)

鎌倉十橋

渋川刑部六郎兼守

NO14号「和田義盛滅亡の地」の中で千葉成胤が法師一人を捕らえ、北条義時に身柄をつきだした。とリポートしました、この法師が白状し捕らえられた一味の中に安達景盛が身柄を預かった「渋川兼守」がいた。今回のリポートの主役です。

*建保元年(1213)二月二十五日 安達景盛に明朝「渋川兼守」を誅殺するよう命じられた。兼守はこの事を聞き悲しみ、「十首の和歌」を「荏柄天神社」に奉納した。

*建保元年(1213)二月二十六日 工藤祐高は昨日「渋川兼守」が奉納した十首の和歌を御所に持参した。将軍家(源実朝)はこれを見て大変感心され、兼守の罪を許し釈放したので死刑を免れた。

天神の御加護と将軍家の御恩に感謝し、そのお礼に荏柄天神社の参道近くに橋を架けたので「歌ノ橋」と呼ばれるようになったと伝えられています。

泉親衡(泉親平)

筋違橋(違橋) 石碑のみ

「渋川兼守」が罪を許された翌月「吾妻鏡」にこんな記述がありました。

*建保元年(1213)三月二日 今回の叛逆の首謀者「泉親衡」が「筋違橋」辺りに隠れていると噂になった。すぐに「工藤十郎」を向わせたところ親衡と合戦になり工藤十郎と郎徒数人が殺害された、その為鎌倉中が騒がしく親衡は何処に隠れたのか分からなかった。(石碑の記述は「宝治合戦」に関する内容です。)