鎌倉好き集まれ!十六夜さんの鎌倉リポート・第3号(2009年11月8日)

元久二年十一月十五日相馬師常卒す

八坂大神 扇ヶ谷の鎮守

*治承四年(1180)九月十七日 石橋山の戦いに敗れ舟で「安房国」に上陸した頼朝は後日「下総国」へ向かう途中で「千葉常胤」と合流した。子の胤正・師常・胤成・胤信・胤道・胤頼 等をつれ軍勢は三百騎あまりだった。

*「頼朝」は「常胤」を招き、「我が父のごとく思う」と言われた。と「吾妻鏡」にでています。頼朝の気持ちがわかるような気がします。今回は「千葉常胤」の二男「相馬氏」初代当主の「相馬師常」に関するリポートです。

*千葉一族として「一ノ谷」「壇の浦」の戦いで「源範頼」に従い西国で厳しい戦いの中、頼朝は「範頼」宛ての手紙で「常胤」のこと「大事にするように」と書いています。

奥州征伐でも武勲をあげた一族は頼朝から所領が与えられ、奥州相馬一族も発展していった。頼朝が鎌倉幕府を開いた後、「御家人」となり自邸の守り神として勧請したのが「八坂大神」、「壽福寺」の南隣りにあります。

鎌倉時代より中世を生き抜き、明治維新まで血脈は受け継がれたようです。


端坐合掌せしめ、更に動揺せず。

*文治六年(1190)一月八日
奥州平定後の翌年「大河兼任」は故「泰衡」の郎党で反逆を起こし七千騎あまりで鎌倉に向かった。
これにより海道の大将軍は「千葉常胤」山道は「比企能員」だった。

*文治六年(1190)十月三日
「後白河院」の命により頼朝は上洛した。先陣の随兵百八十名、後陣の随兵百三十八名、御家人だけでも三百三十人以上、郎党を入れれば千人以上だったでしょうか。
十一月七日 頼朝入京
「後白河院」への御進物 砂金八百両・鷲の羽二櫃・御馬百頭だった。女房「三位局」に桑糸二百疋と紺絹百疋だった。
九日 頼朝は「院」と「内裏」に参られた。「後白河院」とお話をされ時をすごされた。その後「内裏」に参られた。
十一日 頼朝は「六条若宮」ならびに「石清水八幡宮」に参拝された。行列の先陣の随兵のなかに「胤正」の名がみえる。後陣の随兵のなかに「師常」の名がみえる。神前で昼夜祈願された。
二十三日 頼朝は終日「後白河院」と話された。長絹百疋・綿千両・紺絹三十端を内裏の女房方へ贈られた。
二十九日 頼朝は夜「後白河院」に参られた。
十二月一日 頼朝の御拝賀があった。
三日 頼朝は「大納言」・「大将」の辞表を奉られた。
七日 頼朝の鎌倉下向が近くなり御所の「三位局」が餞別をおくられた。
十一日 頼朝は「院」と「内裏」にまいられた。御家人十名、度々の勲功で推薦され「左右兵衛尉」「左右衛門尉」などに任じられた。
    左兵衛尉 千葉常秀・梶原景茂・八田朝重
    右兵衛尉 三浦義村・葛西清重
    左衛門尉 和田義盛・三浦義連・足立遠元
    右衛門衛 小山朝政・比企能員  

十四日 頼朝は鎌倉へ下向された。
二十九日 「酒匂」を出発され鎌倉にお着きになった。

*建久二年(1191)正月一日
「千葉常胤」椀飯をさしあげた。その儀すばらしく頼朝の御昇進もあったからだった。その後御進物の儀があり、「千葉常胤」御劔「千葉胤正」御弓矢「相馬師常」御行縢・沓「千葉胤盛」砂金「千葉胤頼」鷲羽「千葉胤信」・「千葉胤道」・「千葉常秀」其々御馬その後母屋にて祝宴が行われた。

*建久四年(1193)十一月二十七日
「永福寺」薬師堂の供養では「千葉常胤」の子「成胤」が劔をもち、後陣の随兵として「相馬師常」の名がみえる。

*建久五年(1194)八月八日
将軍家、相模国「日向薬師」参拝ではやはり、後陣の随兵として「師常」の名がみえる。

*建久六年(1195)三月十二日
「東大寺」供養では「千葉常胤」の子「胤正」が先陣の随兵、後陣の随兵として「師常」の名がみえる。

*建久六年(1195)五月二十日
「天王寺」参拝では先陣の随兵として「千葉常胤」の子「胤重」と共に「師常」のながみえる。

*建仁元年(1201)三月二十四日
「千葉常胤」亡くなる。年八十四

*元久二年(1205)十一月十五日
「相馬師常」亡くなる。年六十七

「相馬師常」の墓は扇ヶ谷の「浄光明寺」西側、民家の建ち並ぶ奥突き当りにあります。いつ訪れても季節の花が手向けられ、今でも鎌倉市民に崇められているのでしょう。
写真に写っている近年造られた花立てでしょうか、相馬家の「家紋」千葉氏の庶流(分家)になるので「九曜」になるようです。

本「やぐら」は閉塞された大型の龕を持つ特色のある形態であり、保存状態も良好で当初の姿を良く伝えているとともに、被葬者が知られることが極めて稀な「やぐら」にあって、有力御家人の墓と伝えられている。 鎌倉市教育委員会 説明版より