鎌倉好き集まれ!十六夜さんの鎌倉リポート・第32号(2010年6月19日)

覚山尼は東慶寺を開創

三浦一族を滅ぼして北条・安達の天下となった頃、長谷甘縄の安達邸に一人の女の子が誕生した。安達義景を父に、北条政子の弟(時房)の娘を母に持つ彼女は「堀内殿」となずけられ、十歳のときに一つ年上の時宗に輿入れをした。

十八歳で執権となった時宗は三十四歳で亡くなるまで、空前の国難である蒙古の来襲に心血を注いだ。その間、時宗夫妻は父時頼の影響もあり禅への信仰を深めていく。あいつぐ戦乱に加え天変地異など仏教界の腐敗の中で鎌倉仏教に救いを見いだす者も増えきたのか、建長寺・円覚寺・浄智寺などの禅寺が造営されたのもこの頃だった。

時宗は臨終にに先立ち出家入道する。夫人も落髪付衣し、無学祖元から「覚山志道」と安名された。1285年「覚山尼」は松岡山「東慶寺」を創建、第五世「用堂尼」(後醍醐天皇の皇女)の入寺以来、松ヶ岡御所と称され寺格の高い尼寺としてその名をはせるようになった。

開山覚山尼墓

時代は変わりまして、大阪夏の陣で家康は滅ぼした豊臣家の遺児の扱いに腐心する。秀頼の子どもではあっても、孫娘千姫の養女を殺すに偲びず東慶寺に入れさせることで豊臣家を断つことにした。

当時七歳であった第二十世の「天秀尼」は寺に預けられた際、家康から望みをきかれ「開山以来の寺法が断絶することのないように」と願い出て許された。これは江戸時代を通して東慶寺が寺法を行使するうえで、大きな効力となった。 「東慶寺ホームページ」より

第五世用堂尼墓

第二十世天秀尼墓

円覚寺より東慶寺を見る