鎌倉好き集まれ!大佐和さんの鎌倉リポート・第5号(2005年4月1日)

古典作品にみる鎌倉5 「詞林采葉抄(2)」

前回は『詞林采葉抄』に書かれている、鎌倉の名の由来について取り上げました。鎌足が年来所持していた鎌を鎌倉の地に埋めたことから鎌倉という名称になった、というのが由阿の説でした。
今回は『詞林采葉抄』の続きで、鎌倉が、武人が住むのに相応しい場所であることを「鎌倉」という漢字から考察していることと、鎌倉が源氏の拠点となったきっかけについて見て行くことにしましょう。


1.「鎌倉」の字についての考察。


 鎌倉とは、鎌は金を兼ぬと書けるものなり。金は兵甲武機を司る。倉
 は人君と書けり。しからばこの鎌倉は自然(じねん)の理を含みて、
 武備将兵の居なるものなり。
 
 鎌倉の字は、鎌は「金を兼ねる」と書ける。金は武具に相当する。倉
 は「人・君」と書ける。よってこの鎌倉は、自然の道理をも含んだ、
 武具を備えた武将が住まいを構えるに良い所である。


「鎌」を「金」と「兼」に分けている。「金」は金属製の道具を指すから、鎌の字は由阿の指摘の通り武具をいう。
「倉」を「人・君」と解しているが、「倉」はもともと、「食」の字に「口」を合わせたものであり、「口」は「倉(方形のくら)」の形を意したものである。人はみな食べなければ生きていけないわけだから「食」の字に従う。よって「倉」は食べ物を貯蔵する「くら」を指すのが原則になる。
「人・君」という成り立ちにはならないのだが、しかし、貯蔵の意味としての「倉」の義は次の文脈で生かされてくる。







浄光明寺にて(2005.4.30)

雪ノ下の不動茶屋にて(2005.4.30)
抹茶あんみつがおいしかった。

2.天倉と武庫


此所(鎌倉)の風水嶺様を案(かんがふ)るに、今の鶴が岡は天倉(てんそう)という山なり。西に高き山(中略)其の名を武庫(むこ)と号す。亀谷(かめがい)の山なり。これすなはち鎌倉中央第一の勝地と見えたり。今これらの山悉く倉庫の名有り。

鎌倉の地形を考えてみると、今の鶴が岡は天倉という山である。西側の高い山は名前を武庫という。亀谷の山である。これはつまり鎌倉中央の第一の名勝地と思われる。これらの山には倉庫の名が付いている。


亀谷は今の扇ガ谷あたり。今でも「亀ケ谷切り通し」にその名を残している。鶴と亀で対をなしているところが縁起が良い。「天倉」「武庫」と、ともに倉庫を意味する語であると説明しているが、先にも述べたとおり「倉」は倉庫の意味そのものなのである。




3.鎌倉は武将が居を構えるに最適の地
 

その中山を玄武(げんぶ)に当て、貴人金爐らを朱雀(すざく)に当て、天倉を左、武庫を右にして、武将居を成るにおいては諸々の吉慶これあるべし。

その中央の山を玄武に当て、貴人金爐(人や武具・炉)を朱雀に当てる。天倉を左、武庫を右に配すると、武将が住まいを構えるにあたってはいろいろのめでたいことがあるであろう。


「中山」は鶴が岡と亀谷の中央に位置する山であろう。この中山を玄武に当て、貴人金爐(人と武具・炉)を朱雀に当てている。「天倉を左、武庫を右」ということは天倉が東側、武庫が西側に位置することになる。
玄武・朱雀ということばが出てきたが、これらは四神相応(しじんそうおう)と言われる地相をあらわす考えのうちの二神である。
四神相応とは、東西南北の四方を4種の霊獣が守るもので、東に川が流れるのを青龍、西に道があるのを白虎、南にくぼ地があるのを朱雀、北に丘陵があるのを玄武とし、この四神に守られた地は、無病息災・長寿・官位などをもたらすと言われている。これは古代中国の発想であるが、日本でも『続日本紀』にこの四神の名を確認できる。
詞林采葉抄のこのくだりは、四神相応の発想にあやかったものと思われる。玄武は北方に、朱雀は南方に配されるものであるから、そうすると、この本文から

天倉(鶴が岡)・・・東
武庫(亀谷) ・・・西
貴人金爐   ・・・南
中山     ・・・北

ということになり、鎌倉は武人が住むにあたって吉慶をもたらす最適の地であることを、由阿はあらためて実証的に説こうとしている。平安京がやはりこの四神相応の地相に適していたように、鎌倉にも同様のことを当てはめたかったのであろう。




近所に住む少年、K・T君(小学6年生)に書いてもらった朱雀(上)と玄武(下)のイメージ。K君の将来の目標はロケット開発者!か○う姉妹を乗せて月まで行くことが夢だとか。
頑張れ、K君。


『続日本紀』
文武天皇(697年)~桓武天皇(791年)までの出来事を記した歴史書。桓武天皇の命により、藤原継縄と菅野真道が延暦16年(797)に撰上。

同じくK君に書いてもらった源頼義(イメージ)。


※国名の後に、守や介といったことばがあるが、それぞれ「かみ」、「すけ」と読む。
これは、四等官とよばれる官職を表すもので、もともとは
「長官・次官・判官・主典」と書いて、順に
「かみ・すけ・じょう・さかん」
と読み、国では
「守・介・掾・目」
の字を用いた。読み方は同じ。
長官は国の庁務を総括し、次官は長官と同じ職掌を有する。判官は庁内の取締り、主典は記録・文書の作成にあたった。

4.源家相伝の地


平将軍貞盛(さだもり)の孫、上総介(かずさのすけ)直方(なおかた)鎌倉を屋敷とす。ここに鎮守府(ちんじゅふ)将軍兼伊予守(いよのかみ)源頼義(よりよし)いまだ相模守(さがみのかみ)にて下向の時、直方の聟となり給ひて八幡太郎義家(よしいえ)を出生し給ひしかば、鎌倉を譲りたてまつりしより以来、源家相伝の地として、去る治承5年に右幕下征夷大将軍、鶴岡に八幡宮を崇めたてまつり給ふ。

平貞盛の孫である上総介平直方が鎌倉に屋敷を構えていた。鎮守府将軍兼伊予守源頼義がまだ相模守であり、下向していた時、直方の娘を嫁にして八幡太郎義家を生んだので、直方から鎌倉を譲り受けて以来、源家相伝の地となった。治承5年には源頼朝が鶴岡に八幡宮を移して祭り崇めるようになった。


平直方は平安中期の軍事貴族。生没年不詳。
源頼義は、平忠常(たいらのただつね)の乱を鎮定できなかった平直方に代わって征討した武勇に優れた人物。前九年の役で義家(頼義の子)と共に陸奥の豪族を打ち、東国での源氏の地位を確立した。この頼義が康平6年(1063)鎌倉由比で石清水八幡宮の分霊を勧請(かんじょう)し、源氏の氏神(うじがみ)とした。その際、直方は頼義の武勇を見込んで彼を聟とし、鎌倉の地を譲ったという。以後鎌倉は「源家相伝の地」となったわけである。
由比に勧請された八幡宮は、のち治承4年(1180)に源頼朝が今の地に移して鶴岡八幡宮とした。本書の「治承5年」は、治承4年の誤りである。







5.おまけ
(1)前九年の役。
平安時代半ば、永承6年(1051)~康平5年(1062)に陸奥国北部で起こった安倍氏の反乱。東北地方で横暴をはたらいていた陸奥の豪族、安倍頼時・貞任が朝廷から派遣された源頼義・義家の武力介入に反抗。源頼義・義家が出羽の清原武則(きよはらたけのり)の援助で勝利し、これをきっかけに源氏勢力が東国に定着した。

(2)後三年の役
平安時代後期、永保3年(1083)~寛治元年(1087)年に起きた清原一族の内紛。源義家が清原清衡(きよはらのきよひら)を助けて鎮定する。清衡は後に藤原に改姓し、平泉に本拠を置き、奥州藤原氏が3代にわたって栄えた。
(藤原三代:清衡、基衡、秀衡 → 某河川のドラマで高橋秀樹が演じているのがこの秀衡)

(3)前九年の役と後三年の役の関係。(右系図参照)
後三年の役で活躍した清衡の祖父にあたるのが、前九年の役に出てきた頼時。清衡はもともと安倍側の人間だった。前九年の役で頼時や清衡の父である藤原経清(系図の左端)らが敗死すると、清衡の母(清衡の右上、女と書いてある)は清原武則の子、武貞と再婚し、清衡は清原氏に養育された。のちの後三年の役での勝利をきっかけに、清衡は奥六郡を支配し、奥州藤原氏の礎を築いた。

ややこしい話ではあるが、この後三年の役で勇ましい活躍をしたのが、あの鎌倉権五郎景正である。


というわけで、次回は『奥州後三年記』


○文献
『詞林采葉抄(万葉集叢書10)』(由阿著、古今書院、昭和3)
『国史大辞典』(吉川弘文館、昭和54~平成元)
『大漢和辞典1』(諸橋轍次編、大修館書店、昭和30)

ちょっと字が見にくいね。
漢字の輪郭から判断していただければいいのですが・・・