鎌倉好き集まれ!KIさんの鎌倉リポート・第107号(2008年8月22日)

【お盆特集①】 旧暦の七夕について

鶴岡八幡宮の七夕祭り

七夕幟が翻る鶴岡八幡宮境内

たわわに綴られた梶の色紙


笹の葉 さらさら 軒場に揺れる・・・

こんな童謡を唱和しながら短冊をしたためたのも,早1ヶ月以上前になってしまいましたね。
 まだ梅雨明けやらぬ7月上旬,鶴岡八幡宮では,毎年恒例,大掛かりな七夕飾りとたくさんの梶の色紙が目を楽しませてくれました。この夏休みの抱負などを短冊に託した人もおられたのではないでしょうか。

さて,今回お話しするのは,旧暦の七夕。現在では多くの地域で新暦(西暦)の7月7日に行われている七夕行事ですが,江戸時代以前は旧暦で行われていました。
 この旧暦7月7日は今の暦に直せば,8月上旬~下旬にあたり,ちょうど今頃の時期が,本来の七夕時期だったということになります。ちなみに今年の旧暦7月7日は8月7日,昨年ならば8月18日です。ちょうど今頃の時節が本来の七夕だったわけですね~^^
 梅雨真っ只中の今の新暦の七夕に比べれば,織女と牽牛が渡るという「天の河」を拝める確率も当然,かつての旧暦の七夕のほうが圧倒的に高かったということです。

境内は七夕祭り一色

笹竹に飾られた七夕飾り


ところで,現在よく見られるような,笹竹に短冊をつるして願い事をする子供中心の七夕祭りが出来上がったのは,江戸時代の後期からだといわれています。
 七夕行事自体は,わが国では奈良時代前後には行われていたことが確認されていますが,江戸時代以前の七夕祭りは現在見られるようなものとはだいぶ異なった感じのものでした。

七夕祭りの原型として,今回まず紹介したいのが,乞巧奠(きっこうでん)という行事。以前のレポートからたびたび紹介している大宮八幡宮で,去る7月に乞巧奠と乞巧奠遊びが再現されました。
 その写真とともに,次章以降で旧暦の七夕がどんなものだったのかを探ってみましょう。

大宮八幡宮の乞巧奠(きっこうでん)

乞巧奠(きっこうでん)

神職が乞巧奠(きっこうでん)に一拝


2008年7月6日,午前中に鶴岡八幡宮の七夕祭りを見た後,東京都杉並区の大宮八幡宮の七夕祭りに駆けつけたのは午後4時のこと。

うっそうとした和田堀公園の一隅。

鶴岡八幡宮で見たのと同様な七夕飾りが翻る参道から境内へ。清涼殿の屋内に,乞巧奠があります。写真は平安時代の宮中で行われていたものを当時の記録を元に再現したものとのこと。台座に,糸枠などの手芸道具とともにナスやキュウリの野菜などを供え,さらにその手前に琵琶をはじめ管弦の楽器を供えて,技芸の上達を祈願しました。詩歌などを書いた紙も供えたりもしたそうで,これが短冊の原型となりました。

織女の五百機立てて織る布の秋さり衣誰れか取り見む (読み人知らず)

これは万葉集の一首で,七夕を謡ったもの。他にも織女(おりひめ)と彦星の逢瀬をうたったものなど,万葉集には七夕の歌がなんと130首以上もあるそうです。この歌には「秋」という言葉が入っていますが,旧暦だった当時は七夕といえば秋の風物だったのです。また,聖武天皇が七夕の日に詩歌を廷臣たちに作らせたという記録もあり(続日本紀),少なくとも奈良時代には,織女(織姫)や彦星(牽牛)が登場する七夕行事があったということになります。
 否,もっと厳密に言えば,織女と牽牛が天の河を越えて逢うという話は古代中国で成立した『星合伝説』とよばれるもの。そして,七夕の原型になった乞巧奠は,実は『星合伝説』とは別物として南北朝時代の中国で行われていたもの。この二つが7世紀に中国の唐王朝からわが国に相前後して伝えられ,奈良時代以降にお互い融合しました。さらに日本(倭)に古来からあった棚機津女(タナバタツメ)の神事とも結びついて,平安時代になると,織女と牽牛が前面に現れて「タナバタ」という名称で呼ばれる乞巧奠の宮廷行事が行われるようになったというわけです。これが,いわゆる日本独自の七夕行事の始まり。
 平安時代,七夕の乞巧奠では,詩歌を供えるだけでなく,管弦や舞踊も行われました。それを「乞巧奠遊び」といいます。当時,どのような曲でどのような舞が行われたのか完全に再現するのは難しいのですが,大宮八幡宮では,当時の記録を参考にしつつ,現在神社で行われている神事や神楽などをミックスさせて,「乞巧奠遊び」を再現しています。当時のものと同じというわけにはいきませんが,おおむね似通っていたのではないでしょうか。
 以下に,写真とともに大宮八幡宮の「乞巧奠遊び」の式次第を見ていきましょう。

管弦に合わせて「浦安の舞」が始まります

管弦を奏でるのは,大宮八幡宮の神職と巫女


大宮八幡宮の「乞巧奠遊び」は夕方17時から執り行われました。

まず,男性神職が乞巧奠を前に一拝。

それに続いて,管弦の演奏(右写真)。琴,琵琶,笙(しょう),篳篥(ひちりき)が互いにコラボレーションして古風な音曲を奏でます。古くは中国の前漢の時代に作られたという曲から,宇多王朝のころの宮廷音楽まで数曲。華麗さと厳粛さ,どちらもそろったような雰囲気でした。

そして,舞踊。平安朝のころは専門の女官が舞姫として舞ったのでしょうが,この日は大宮八幡宮の巫女による浦安の舞(左写真)。鶴岡八幡宮の祈年・新嘗の祭事の時など,本殿で垣間見られるのと全く同じものですが,ここではすぐ目の前で優雅な神楽を陪観することができました。

約30分ほどの乞巧奠遊び。七夕祭りを行う神社多しといえども,かつて宮中で行われた乞巧奠遊びをここまで再現・披露しているのは数少ないのではないでしょうか。
 七夕のルーツの一端を実感できる行事です。

大宮八幡宮の笹竹飾り

大宮八幡宮参道の七夕幟

大宮八幡宮の七夕飾り

竹搭と大宮八幡宮本殿


さて,七夕のルーツとして,乞巧奠と星合伝説を紹介しましたが,もうひとつ七夕のルーツとしてきちんと紹介しなければならないものがあります。

それは,棚機津女(タナバタツメ)の神事。乞巧奠のところで少し先述したものです。ある意味,この日本古来のものである棚機津女(タナバタツメ)が,七夕のそもそもの原型であり,わが国の七夕とその関連行事を語る上で最も重要なものなのかもしれません。

【棚機津女(タナバタツメ)と七夕祭り】

わが国の七夕行事の原初的な姿は水神あるいは外界からの来訪神に対する祭祀だったといわれています。当然ながら織女や牽牛などは全く関係ありません。立秋あたりの夜(のちの七日盆のこと),その神様をお迎えするのが棚機津女という機織りをする巫女でした。棚機津女は水辺に営まれた仮家で神様を待ちながら捧げ物の着物を織り,神様が来ると織った衣などと引き換えに集落の豊穣安寧を神様にお願いするという役割を担っていました。
 やがて大陸文化の普及とともに,おそらく棚機津女は織姫と同一視されるようになり,星合伝説に取り込まれて影を潜めます。それとは対照的に,大陸由来の織女・牽牛の存在感が前面に出てくることになるのです。 ただ,「七夕」を「たなばた」と発音するのは棚機津女の棚機(タナバタ)に由来します。仏教伝来以前の古墳時代に行われていただろう棚機津女の祭祀の名残です。

夏越の祓え神事

夏越祭,水辺でのお清め神事(8月6日,鶴岡八幡宮で)

夏越祭の茅の輪(8月6日,鶴岡八幡宮で)


さて,棚機津女の名残は「七夕=たなばた」という呼び名だけなのかといえばそうではありません。
 棚機津女は水辺で機織りを行い,水神あるいは来訪神の祭祀を司る存在であったというのは先述したとおりです。来訪神というのは海あるいは川,つまり水を隔てた別世界からやってくる神様や精霊。棚機津女は水に関する祭祀・信仰と密接な関係にありました。
 今でも旧暦で七夕を行う地域では,禊(みそぎ)あるいは水浴びをするケースが少なくありません。これらの地域では,七夕を「七日盆」といって,盆行事(あるいは祖先神の来訪)を迎えるにあたってのお清めであると位置づけています。これも,水信仰と密接であった棚機津女の名残だと考えられています。
 ここまで読んでくれば,七夕というものは本来,水の潔斎と深い関係にあったこと,別世界からやってくる神々や祖先霊を迎える(お盆前の)お清めであったことがおぼろげながら見えてくるのではないでしょうか。
 そして,この古来の七夕の姿が,実は鎌倉の鶴岡八幡宮でも見出せることを最後に紹介して今回レポートを終わりたいと思います。それは鶴岡八幡宮で先般催行された夏越祭。蓮がはびこる源平池の畔で,お清め神事が行われました。鶴岡八幡宮では七夕祭り自体は新暦の7月に済んでいるのですが,お盆前の8月6日に古式に則って,水辺でお清めをするのは,明らかに原初の七夕の姿そのもの。棚機津女の祭祀とまったく同じ位置づけであり,旧暦の七夕の名残であることは疑う余地もありません。

現在,織姫彦星の伝説を語らいながら笹の葉に願い事を託すことが主流となっている七夕祭り。本来はお盆行事と一連のものであり,祖先霊や神々を迎える前のお清めの行事だったのです。
 もともと七夕は、お盆(旧暦7月13日~15日)の直前,旧暦7月7日に行われていたのですが,明治以降に,お盆は立秋後の時期に据え置かれたまま,七夕だけが新暦扱いとなって,お盆の日付とは1ヶ月以上も前に引き離されてしまいました。それが,七夕がお盆を迎えるための前座の行事だったことを,さらに忘れさせる結果につながっていることは否めないかもしれませんね。




(追伸)
次回は【お盆特集②】。さらに別の切り口から旧暦七夕とお盆の関係について探りたいと思います。