鎌倉好き集まれ!KIさんの鎌倉リポート・第49号(2007年5月31日)

鶴岡八幡宮のルーツを旅して(その4)~埼玉編

『小江戸』の異名をとる川越,蔵の街並み

このたび,鎌倉から遠く離れた埼玉県の川越と春日部を旅してきました。

まずは川越市。

川越といえば,江戸時代に幕府要人の城下町として栄え,当時の歴史的な街並や寺院などが多く残っていることで有名です。
 年間1800万人もの観光客が訪れるという鎌倉には及ばずとも,年間500万人の観光客で賑わう一大観光文化都市なのです。

この川越を訪れたのは,つい先日の休日。

JR新宿駅からの湘南新宿ライン,いつもは南へと向かう逗子行きに乗るところ,今回だけは北へと向かう列車に乗り込みます。大宮駅で電車を乗り換え,川越駅に到着したのは午前11時をまわる頃でした。

天候は時々木漏れ日のさす薄曇り。
なにせ関東中北部を代表する歴史都市とあって,自分が古い街並みのあるエリアに辿り着いた昼前には多くの観光客,そしてこれでもかというくらいの・・・
乗用車の渋滞
でたいそうな賑わい振りでした。

おいおい,鎌倉の鶴岡八幡宮の話なのになんで川越が出てくるんだよ!?

・・・と突っ込み来ますよね,当然。

まあ落ち着いて(^^;)。実はこの川越にあるんですよ~。

鶴岡八幡宮と親戚関係ともいえる神社が


蔵の屋敷と並んで川越の象徴といえば,この鐘楼ですね

源頼信公が創建の川越八幡宮

その名も『川越八幡宮』。
1030年,源頼信によって創建されました。鶴岡八幡宮をはじめ南関東のあちこちに八幡宮を建てまくった,シリーズお馴染みの源頼義さんの父親です。
 平忠常(*)討伐の戦勝祈願で川越の地に八幡大神を祭ったのが始まりとのこと。ちなみに同じ年に,父に従軍していた頼義が今の茅ヶ崎市に八幡大神を奉ったのがレポートNo.37で紹介した鶴嶺八幡宮です。
 自分が参拝した当日,宮司さんがおられました。
宮司さんによると,この川越八幡も,鶴岡八幡宮などと同様に京都の石清水八幡から分霊勧請された可能性がかなり高いそうです。
 創建者が互いに親子ということで,川越八幡宮は鶴岡八幡宮の叔父的存在といったところでしょうか・・・
 参拝記念に御朱印を頂き,緑深くなった鎌倉と比べるとまだ新緑まぶしい川越八幡の境内を後にしました。
続いては,同じ埼玉県の春日部(かすかべ)市
しばし川越を離れ,JRと東武電鉄野田線を乗り継ぐこと40分ほどで到着しました。

お目当ては,春日部八幡宮。東武線の八木崎駅から徒歩7,8分のところ,閑静な住宅街の中に鎮座しています。
 この春日部八幡は鶴岡八幡宮を勧請したものです。1330年,春日部重行という武士が建てました。
 若宮大路にある段葛のミニチュアのような,50メートルほどの参道を通って境内へと至ります。
 そばには学校や武道館があり,静かな境内を時折,学生服の中学生や柔道着姿の子供たちが駆け抜けていきました。
 重行は鎌倉の鶴岡八幡宮をたいそう崇敬していたそうで,鶴岡八幡宮をかたどってこの神社を建設したとのことです。
 そのためか,社殿は現在も鶴岡八幡と同様,上宮と下宮の配置になっています。境内へと至る参道ももしかしたら段葛を意識したものなのかもしれませんね。

春日部八幡宮~ちょっと判りにくいけど,上宮(右の建物)と階段の下にある下宮(左の建物)の社殿配置なのです。

春日部氏は鎌倉時代には幕府御家人として活躍しました。
 春日部重行が当主だったころは鎌倉時代の末。各地で,幕政に不満を持つ悪党や寺社の強訴などが横行し,鎌倉幕府の統制力が衰えていた頃でした。そんな幕府を見限ってなのか,自身も北条得宗家に不満があったのか,1333年,ついに重行は新田義貞が率いる討幕軍に加わって鎌倉街道を南下したのでした。
 戦の結果は教科書にある通り『鎌倉幕府滅亡』。重行公が崇敬した八幡様の御利益あって倒幕派が勝利したのですが,負けた幕府側も鶴岡八幡宮を崇敬していたはず・・・あれ?
 民を守れなくなった鎌倉幕府よりは新時代を切り開く反体制派の武士達に八幡大神様(応神天皇)は軍配を上げたということでしょうか。なにせ,御自身も生前には日本(倭国)の為政者だったんですしね。 
 境内に隣接する鎮守の森を散策した後,鶴岡八幡宮の子供的存在である春日部八幡宮を後にしました。

下宮のあたる本殿脇には古そうな狛犬が

オレンジの夕焼けに浮かぶ鐘楼のシルエットは幻想的

そして夕方,再び川越へ
 日は西に傾き,蔵の街並みを次第にオレンジに照らし出していきます。
 昼間はあれほど人が闊歩していた界隈も,この時間帯には静けさを取り戻した街並みをゆったりと散策できます。
 江戸時代の面影を残すことで有名な小江戸川越ですが,実はそれ以前の時代に鎌倉との意外なつながりがあったのをご存知でしょうか。自分も川越を訪れて初めて知りました。
 古い街並みのはずれに川越城(河越城)があります。現存する屋敷は江戸時代のものですが,1457年に鎌倉の扇ガ谷に本拠を置く関東管領(鎌倉府の次席),上杉持朝が築いたのです。当時は足利将軍が支配する室町時代。鎌倉には関東支配の出先機関として鎌倉府が置かれ,川越は鎌倉府の北の要衝となったわけです。
また,かつて信州と鎌倉を結んでいた鎌倉街道のひとつ(上道)が川越のすぐそばを通っていたこともあり,古くから鎌倉へ向かう街道の中継点として重視されただろうことは想像に難くありません。
 夕焼けも終わり,あたりは次第に暗くなってきました。
 ほとんど店舗が店じまい。少し前まで東京方面へと帰る車で数珠繋ぎだった道路も,地元ナンバーの車が時々行きかうのみとなりました。
 今回は八幡神社だけでなく川越の町そのものが鎌倉と密接な関係があったことを知りましたね~。

かつて,新田義貞の討幕軍が近くを通ったかもしれない川越・・・

その鎌倉幕府の危機に,信濃守護の北条国時が「いざ鎌倉」と駆け抜けたかもしれない川越の町・・・

午後7時,すっかり暗くなった川越の街を後にしました。









(追伸)
今回,鎌倉から遠く離れた埼玉で鶴岡八幡宮のルーツ(?)を辿りました。シリーズ次回は八幡宮の主祭神『八幡大神』さまにグッと迫ります。

(*)平忠常の乱(1028~1031年)。平忠常はあの平将門の血縁者で,国府を次々に襲撃して房総一帯を占領。朝廷は「平将門の再来」と驚愕した。

蔵の街並みに明かりが灯りました