鎌倉好き集まれ!KIさんの鎌倉リポート・第55号(2007年7月12日)

旧暦5月23日,七夕の鎌倉で古人を思う

去る7月7日,時折激しく雨が降り注ぐ曇天の鎌倉。

多くの七夕飾りが鶴岡八幡宮の境内を飾っていました。

本日は,七月七夕の本番。また,休日とあってか,悪天候にもかかわらず境内は賑わっていました。

七夕(たなばた)の由来について少し調べてみました。
 日本がまだ「倭」と内外からよばれていた上古の昔からあった,棚機女(たなばたつめ)の土着信仰(*1)と,奈良時代に唐から伝わった宮廷行事,乞巧奠(きっこうでん*2)が結びついて,現在の七夕祭りに至っているということだそうです。


七夕飾りを仰ぎ見て(三の鳥居)

柏の札に飾られた舞殿

もともと7月7日の七夕祭りは旧暦で行われていました。

今のような梅雨も明けきらない時候に七夕をやるようになったのは明治5年に新暦を採用してからのこと。 

それ以前の時代には,夏も終わりに近づき秋の便りが聞かれ始める(現在の新暦でいえば8月末~9月初に相当)時候に七夕祭りをしていたということになります。

当然ながら梅雨明け前に比べると晴天の確率も多く,旧暦でやっていた昔は天の川を拝めた確率も高かったかもしれませんね。

現在は,鶴岡八幡宮もそうであるようにほとんどの地域で新暦の7月7日前後に七夕祭りが行われています。
 
ところで,今年の新暦7月7日は旧暦にすると5月23日になります。

色とりどりの七夕飾りに華やぐ鎌倉で,その前日の旧暦5月22日にかつて大きな悲劇が同じ鎌倉の地をどよませたのを知っている人はどれだけ居るでしょうか。

1333年5月22日,長きにわたって鎌倉幕府を支配してきた北条一門は新田義貞の軍勢に追い詰められ,ついに東勝寺にて集団自決し鎌倉幕府が滅亡しました。

太平記によると,当主の北条高時をはじめ北条一族と家臣の870人もの人々が東勝寺近辺で次々に自害して果てたとあります。

奇しくも,現代の鎌倉では七夕祭りの時期と鎌倉幕府の命日が重なっているわけです。

宝戒寺本堂。今やこの寺は北条得宗家にとって唯一の安住の地なのかもしれません

鶴岡八幡宮の境内を後にし,少し食事をとってから,北条一族を供養する宝戒寺と腹切りやぐらへと向かいました。
 
まずは宝戒寺。八幡宮から東へ歩いて5分ほどです。
 別名「萩寺」ともよばれ,9月末には境内一杯にに白い萩の花が咲き散らしますが(レポートNo.21参照),今は深い緑が覆いつくしています。
 高時ら北条一門の死後2年目の1335年,彼らを弔うために後醍醐天皇が足利尊氏に命じて建立させた宝戒寺は賑やかな八幡宮とは裏腹。しっとりと静寂な境内には時折,本堂の鐘が響くのみです。

ぼぉ~~ん~ん~ん~・・・・・・・

かつて北条得宗家の屋敷があったこの地。隅々の土にまで浸み込んでいくかのようにいつまでも余韻が小さく長く鳴り響いていました。
宝戒寺から少し大町方面に歩き,東へと続くわき道を辿って,北条高時腹切りやぐらを目指しました。

歩くこと10分弱。滑川にかかる東勝寺橋から,谷戸の住宅街を両脇に坂を上り詰めるとまず東勝寺の跡地に着きます。

かつて多くの北条一門が自害した寺院跡には木々が生い茂っています。

火が放たれた寺院の内外では,命運尽きた人々が喉に腹に刃物を突き立てて次々に死んでいきました。太平記には,いまわの際を迎えた人々が織り成す様々な人間ドラマがまざまざと描かれています。
 そうした中に信州塩田から遠路はるばる駆けつけた北条国時・俊時の親子がいます。父子ともども東勝寺付近で自害した様子,不忠な家臣のせいで無念の最期だった様子が1章割いて描かれています。

樹叢がせり出す東勝寺の跡地前にて

太平記のこのくだり(第10巻)は自分も目を通しました。悲話として名高い平家物語にも勝るとも劣らないくらい,負けた側が辿る運命の悲惨さというかどうしようもなさがにじみ出ていると感じました。

東勝寺跡のすぐそば,山の入口(祇園山ハイキングコース)を少し登ったところに,北条高時腹切りやぐらがひっそりと口をあけています。

‘霊処浄域につき参拝以外立入禁’

674年も時が流れているとはいえ,多くの人々が絶望と恐怖にさいなまれながら死んだ場所・・・
 いつもは一事が万事ノウテンキな自分ですが,このときばかりはさすがに表札に書かれた文字がずっしり重くのしかかります。

傍らに腹切りやぐらがある祇園山ハイキングコース入口(自分にはやぐらにシャッターを向けることはできません)

夕暮れ時,七夕祭の神楽が優美にしめやかに催されました

午後5時になる頃,再び鶴岡八幡宮に戻ってまいりました。

舞殿では七夕祭りの奉納神楽が行われました。楽器や筆硯,糸枠などを神前に供えて,技芸の上達とお清めを祭神に祈願して舞われる神楽なのですが,幕府滅亡の翌日という日取りと鎌倉という場所柄を思えば,674年前の戦火の犠牲者をも弔い靖んじる舞いにも見えてきます。

七夕の鎌倉に息づく歴史を思えば,露のしたたる七夕祭りも残念ではなく不思議と至極理にかなっている気がするのは自分だけでしょうか。

この鎌倉では今を生きる人々も昔非業の死を遂げた人々も皆そろって七夕祭りを楽しみましょう。

最近流行の「環境にやさしい」ならぬ「死者にもやさしい古都鎌倉」というのも大切かもしれないと,七夕の鎌倉で先人達の足跡を辿ってみて切に感じました。
                        2007年7月12日 K.I.





(追伸)
1335年7月,北条高時の忘れ形見,北条時行が弔い合戦とばかりに一時的に鎌倉を奪い返しました。北条時行が拠点としていたのは前出の北条国時・俊時父子が守護をしていた信濃。居城の上田市塩田あたりは前に紹介したように「信州の鎌倉」とよばれ,北条氏や鎌倉幕府とも深いつながりがありました。次回から数回に分けて,信州上田から鎌倉へと続く鎌倉街道を,北条国時・俊時父子の足跡を辿りつつ紹介したいと思います。