鎌倉好き集まれ!KIさんの鎌倉リポート・第63号(2007年9月26日)

鶴岡八幡宮のルーツを旅して(その5) ~福島いわき編~

こんにちわ。今回ほぼ4ヶ月ぶりの「鶴岡八幡宮のルーツを旅して」のシリーズです。


福島県いわき市にある飯野八幡宮を訪れたのでご報告します。

飯野八幡宮はJRいわき駅周辺の市街地から少し離れた山手の集落に佇んでいます。
 自分が飯野八幡宮を訪れたのは去る8月の半ばにさしかかる新盆の頃,当日は曇天気味であったとはいえ残暑厳しい中のことでした。

暑い夏休み,みんな海水浴や行楽地へ出かけているためなのか,昼下がりの境内は静かでした。


飯野八幡宮の楼門

社伝によれば,飯野八幡宮は1063年に源頼義公が奥州合戦(前九年の役)出征の帰途に京都石清水八幡宮をこの地に勧請し,戦勝御礼したのが始まりだとされています(1063年創建説)。

源頼義さん? あ~,またこの人ですかぁ・・・

これをお読みの方の中にはそう思われている人もいるかもしれないですね^^
下に記すように,「鶴岡八幡宮のルーツを旅して」シリーズ第1回~4回まですべてにそのお名前が登場していますね。

 第1回(2007.1.17紹介)~京都の石清水八幡宮;ここの神霊を源頼義公が各地に勧請
              由比若宮(元鶴岡八幡宮);1063年に源頼義公が創建
 第2回(2007.2.28紹介)~大阪河内の壺井八幡宮;1064年に源頼義公が創建
             茅ヶ崎の鶴嶺八幡宮;1030年,源頼義公が創建
 第3回(2007.4.6紹介)~東京杉並の大宮八幡宮;1063年,源頼義公が創建
 第4回(2007.5.31紹介)~埼玉の川越八幡宮;1030年,頼義公の父,源頼信公が創建


そして今回,源頼義公は奥州の地にも石清水八幡宮の分霊を勧請し,その足跡を残しているのだというのです。

源頼義公,東は福島から西は大阪まで幅広く自分の痕跡をお残しになっていますねぇ~,スゴイ!

・・・と言いたいところですが,別の言い伝えによると,飯野八幡宮は1186年に源頼朝公が石清水八幡を福島いわきの地に祭ったのが始まりだとするとされているのです(1186年創建説)。








今度は境内の中から楼門をのぞみます

1063年創建説をとるならば,奥州の前九年合戦での清和源氏の勝利を祝して源氏の守神「八幡大神様」こと応神天皇を奉って建てられたものと言えるでしょう。
 
一方,1186年創建説をとるならばどうなるでしょう?
 少し考えてみれば,この年は源義経が壇ノ浦で平家を滅ぼした翌年であり,頼朝公の鎌倉政権にとって西の脅威であった平家勢力はもはや存在しません。そして今度は鎌倉政権と奥州の平泉政権(奥州藤原氏)が日本の覇権をめぐって対立し始めます。1186年という年はちょうどそんな状況だったと思われます。

 「かつて祖先の頼義公がやり遂げたように自分もまた奥州を制圧したい」

そう思った頼朝公が戦勝祈願して奥州藤原氏の喉元,奥州南部に「八幡大神」を奉ったとしても不思議はないでしょうね。

1063年創建説も1186年創建説も両方とも全く頷けるけれども,どちらが真実なのかは今となっては確かめるのは難しいですね。

とはいえ,創建者が頼義公であっても頼朝公であっても,ここ飯野八幡宮が鎌倉の鶴岡八幡宮と姉妹関係にある縁が深い神社だということには変わりがありません。

遠く離れた東北の地にも,坂東武者の棟梁,清和源氏の足跡がしっかり刻まれているわけですね。

静かな飯野八幡宮の境内にて

いわき市泉崎青年会のじゃんがら

ところで,この8月新盆のころに福島県いわき市を訪れたのには,飯野八幡宮参拝の他にも目的があったのです。

それは・・・

じゃんがら

を見学することです。

「じゃんがら」は「じゃんがら念仏踊り」とも呼ばれ,いわき市独特の踊り念仏です。新盆のころに市内各地で踊られます。各地の青年会が担い手であり,鉦と太鼓を打ち念仏歌を唱えながら踊り,所属地域を練り歩くのです。
 最初に主だった寺院でじゃんがらを奉納した後,民家をまわって,夜遅くまで,じゃんがらを踊るのです。
十数人の青年男女が輪になって手踊りや鉦で念仏歌を歌い,半円陣の真中で太鼓が3名,リズミカルに両面太鼓を叩きながら前後に跳躍するようにコミカルな演舞をします。
 この1年間に不幸のあった家庭をまわり、鐘や太鼓でにぎやかに供養するわけですね。
 いわき市内に100を超える団体がじゃんがらをやっており,いわき市のお盆の風物詩なのですが,400年以上前からこの地で踊られていたようです。
 ちなみに17世紀はじめ,いわきの高僧,袋中上人が琉球王国(当時,尚寧王の時代)に渡ったときに,念仏の布教手段として故郷のじゃんがらを琉球の人々の間に広めました。その念仏踊りが,もともと琉球にあったモーアシビーなどの集団舞踊と結びついて出来上がったのが「エイサー」だといわれています。
 なお,沖縄エイサーの写真は自分の過去レポート(第57号及び61号)にありますのでそちらを参照ください。


鉦と手踊りをバックに,激しく太鼓を叩き踊ります

・・・と,少し脱線してしまいましたが,ここらで話を元に戻して,飯野八幡宮と鎌倉幕府の関係について触れましょう。
 現在,飯野八幡宮の宮司を務める飯野家の祖先は伊賀光宗という人で,鎌倉幕府の有力御家人でした(1178年生~1257年没)。妹が2代執権,北条義時の後妻になったのをきっかけに政所執事など要職につきました。途中,政争(※註釈参照)に敗れて一時的に信濃に流されますが,5代執権の北条時頼の治世中に評定衆として再び幕府要職に返り咲きます。そして1247年,その時頼から好嶋荘(いわき市好間)の預所に任命された時,同時に飯野八幡宮の神主職を兼任しました。その後,伊賀氏は代々,神主職を継承し飯野氏と名乗るようになりますが,これが鎌倉時代から現在まで連綿と続く宮司飯野家の始まりなのです。

地理的には,南と北に250キロ以上も離れた鎌倉と福島いわき。

一見,お互いに縁がなさそうだけど,いろいろ調べてみると,実はお互い歴史的には密接な関係があったわけですね。

いわきと飯野八幡宮に息づく歴史を実感したところで,今回のレポートは終わりにしたいと思います。次回の「八幡宮のルーツを旅して」シリーズ6回では,鶴岡八幡宮など全国の八幡宮の主神である八幡大神様のお膝元,大阪河内の誉田八幡宮をご紹介したいと思います。
                                  2007年9月26日 KI







(※註釈)
1224年に起きた「伊賀氏の変」というもの。北条義時の死後,伊賀光宗は,妹(伊賀局)と義時の間に出来た子,北条政村を3代執権に付けようとしますが北条政子に阻まれます。結局,義時の先妻の子,北条泰時が3代執権になり,伊賀光宗は所領と職権を剥奪されて信濃に追放。妹の伊賀局も伊豆に追放されました。ただし,翌年に北条政子が他界すると伊賀一族は罪を許されて所領は回復されました。

飯野八幡宮の御朱印