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もちださんの鎌倉リポート No.10(2007年11月24日)



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信仰について・1



円覚寺正続院。国宝舎利殿の仏牙舎利は宋・能仁寺からもたらされたといい、実朝伝説がある。
 釈迦はけして中国で生まれたのではない。大乗経典や仏像などが盛んに作られたのは1世紀頃の北インド・クシャーン朝カニシカ王以降のことである。ギリシャ(ヘレナ)文明の影響を受け、ナーガルジュナ(龍猛、竜樹菩薩)ら数多くの哲学者を輩出し、経典自体も高度化した。

 ギリシャ文化はアフガニスタンの方面(ガンダーラ〜バクトリア)にまで広がっていたので、仏教はそこから東西交易路(シルクロード)にながれた。ギリシャ人がスキタイといっていた騎馬民族やソグドとよばれた商胡のながれに伝法僧がくっついていったのだ。2-8世紀にかけ中央アジアの住民たちがつたえたため、北伝仏教、といわれる。だから経典など何もなかったはずの紀元前に「中国で高度な仏教がさかえていた」というような説明は、もちろんあやまりだ。

 3世紀末、敦煌に住んでいたインド僧ダルマラクシャ(月氏菩薩・竺法護231-308?)が中国にはじめて本格的な経典をつたえて以来、クマーラジーヴァ(鳩摩羅什344-413)、パラマールタ(真諦499-569)、アモーガバジュラ(不空705-774)らが8世紀末にかけて伝法をつづけた。かれらはサンスクリットの経典をほとんど独学で漢訳した。漢訳のためにわざわざ中央アジアから拉致された者もいた。五胡十六国といわれた騎馬民族は、これを民族融和に利用していったらしい。

 ただ、中国僧の大半はこうしたインド仏教を理解できず、布袋などの自国の神を仏とあおぐ中華主義的な民間信仰にとらわれていったので、日本の遣唐僧らはまず師匠探しに苦労したようである。明代には小説の主人公である関羽や孫悟空もまつられる。中国の神仏混交ぶりはまったく日本の比ではない。


瓜ヶ谷地蔵窟。大日如来の塔、道教的な十王神のほか、鳥居まで彫られている。



百八やぐら15号穴の梵字龕内部。サンスクリット文字(悉曇)は現在の50音表のルーツ。
 平安貴族の和歌には、お経の内容を正確に詠んだものが少なくなく、如法経など都貴族が中心となった写経もさかんに行なわれていた。一切経の筆写は室町時代に終わってしまうのだが、信仰はまだインド思想、つまり仏教哲学に誠実で、エリートたちがささえていた。

 いっぽう、伝法僧のふるさとガンダーラ文化圏は7世紀以降、漸次イスラムに滅ぼされてしまう。唐もイスラムや吐蕃(チベット)に暴力で挑んで惨敗し、シルクロードはあえなく断絶、内乱や廃仏運動もあいついだ。インドでは仏教のヒンドゥー化も進んでいた。ナーランダ寺院が消滅したのは1193年。ビクラマシラー寺院は1203年。インド伝来の最新の学問に依存していた入唐僧はネタさがしに困惑することになる。

 東大寺を中心とする旧仏教はここで行き詰まった。末法の世が現実になったからである。もちろん、行き詰まったことで全盛期のインド仏教がそのまま冷凍保存されるというすばらしい遺産をいまにもたらしている、ともいえる。

 退廃した中国華厳(禅)や呪術色の濃いチベット密教にはアレルギーがつよく、「ダルマ宗」「左道密教」として軽蔑・邪教視されるなど日本化するのは容易でなかった。はじめに物部守屋が仏教につよく反対したのも、おそらく当時の中国仏教が皇帝崇拝(=王法合一思想)にわかちがたく結びついていたからだ。宗教は、ただ新しいとか舶来だからと言う理由で定着するものではない。太子がみずからを救世観音の化身だとなのって飛鳥びとを説得したように、革命的な発想の転換が必要だったのだろう。


十王岩。中尊は壬生地蔵(=延命地蔵)のような左足を下げた宋風の半跏像らしく、中国の地蔵王廟をおもわせる。



金剛界四方仏。極楽寺の伝上杉憲方墓。
 一部の僧たちはこの閉塞感を打開するため、これまで知識層の信仰であり宮廷の秘法であった仏教の大衆化にのりだす。大日如来の秘密の供養塔であり、権力者のみが触れることのできた宝石製の「五輪塔」が、中世には泥岩で大量に作られ、しがない下級武士の墓にさえなった。真言宗などは浄土系の信仰を梃子に多くの民間信者を切り開いていった。また、南都焼き討ちも仏教ルネサンスの一因となった。重源という老僧は、焼失した大仏殿の再興を短期間の勧進によってみごとに成し遂げた。この成功はのちの鎌倉新大仏造営にもつながってくるものだ。

 春日版、五山版などを中心とする仏典の出版もさかんになった。宋版大蔵経(当時の仏教全書)の影響といわれるが、これによって経典は希少なものではなくなり、無数の寺がひらかれていったものと思われる。

 鎌倉新仏教は、仏教に無縁だった多くの人々を救い上げたといわれる。このことは日蓮や親鸞ら独立系の新興教団だけの手柄として語られることが多いが、全くそうではない。

 「和を以って貴し」としてきた朝廷の力が衰え、民衆の中には、極端に富めるものと、相も変わらずうちひしがれるだけものが出てきた。ありあまったカネを吸収し、民衆のためになにかできないか。内外のすべての状況が、すでに日本における仏教全体の宿命的な転換をもとめていた。


参考・唯識学をひらいた無著ことアサンガ(4〜5世紀、ガンダーラの人)の像。奈良県。


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