トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第12号 


▲もちださんトップへ戻る

もちださんの鎌倉リポート No.12(2007年11月25日)



No.11
No.13



信仰について・3



見学ゲートの外にある愛染堂。もとは大楽寺の仏堂で、いまその跡地は覚園寺専用駐車場。
 黒地蔵盆( 8月10日0時〜正午)の夜が更け、いったん人出がはけて静まりかえった愛染堂の前に出てみると、電燈の薄あかりのなかを狂いゼミがいっぱい転げまわっていた。これはその日死ぬ蝉である。暗がりにならんだ鉢のうえで、白いハスがひらき始めていた。

 大森さんとかいう名物和尚がおられたのを、おもいだした。覚園寺は久しぶりで、もうずいぶんになるが、声だけは、はっきりおぼえている。この堂は泉涌寺六世・願行房憲静(?-1295)が胡桃谷にひらいた大楽寺が永享の乱で焼け、上人の位牌とともに旧境内に移転したのを、明治になってさらにここにうつしたものという。

 愛染明王、といえば世田谷・五島美術館に廃仏のころ売られた鶴岡八幡宮の旧像がある。あの銀杏近くに堂があったといわれ、研究者によれば実朝鎮魂の像であるとされる。ひとの「迷い」や「執着」、「一切の苦しみ」などというものは、元をたどればすべて「愛(渇愛)」に由来するという。愛染はそのセクシーな名前とはうらはらに、死者への愛惜やこの世への未練を断ち切るための仏であるらしい。

 むかし、蘭渓という僧は施餓鬼会の最中、梶原景時の幽霊に遭ったとつたえられている。生まれてこのかた、盆に帰ってくる人をお見受けしたことはないが、わたしたちが会ってみたいとおもうような人は、すでにこの世とは完全に切り離された、とおい世界にだけ、いるのかもしれない。


午前3時はむかしの日付変更時。丑三ツともいわれ、鬼門であってあの世から霊魂が現われる時刻とされた。



見学ゲート内の撮影は厳禁なので、参考までに印象を「CG」で描いてみた。本尊から善の綱がのびている。
 覚園寺を中興開山した智海心慧(?-1306)というひとは北京律の中心、京都・泉涌寺から来たという。伝記については、よくわからない。大納言藤原兼房の子とも、孫ともいう。長楽寺や理智光寺、大楽寺(すべて廃寺)をひらいた願行上人の弟子らしい。覚賢や子曇と同じ年になくなり、置文(遺言)などの資料が少々のこっているだけだそうだ。当時叡尊(1201-1291)、忍性(1217-1303)ら真言律宗の僧が奈良から鎌倉に下ってきて一世を風靡したので、天台・禅宗系のがわでも比較的近い教派の律僧をまねいて融和を図ったのだろう。戒律にすぐれ、真言野沢両流にもつうじていた。

 その心慧和尚の小ぶりな頂相は、その夜ロウソクに照らされた薬師堂で、薬師経や普門品を詠じる僧の案(つくえ)の真正面に安置されていた。全身煤けたいろをしていて、払子を持ち、丸顔の温和な表情。1296年、元の再侵略を退けるという名目で寺が再興されたとき、北条貞時に招かれたという。二世大燈源智というひとは京に帰って本山の住職になっているので、心慧は一時赴任中に志半ばで亡くなったのかもしれない。午前3時、堂のうらは、夏山がただ闇をひろげている。非公開の開山塔(1332造立)には、たくさんの梵字が刻まれていたが、ずっと以前にいちど見たきりだ。

 覚園寺は「都」の鬼門に薬師堂を祀ったものだから、もともとは比叡山を模したものだった。鎌倉前期に活躍した栄西・行勇(大倉薬師堂時代の供養導師)一門は天台僧の出身で密教修法によって重んじられた。だが、禅僧たちの修業が本格化するにつれ、天台禅は臨済宗へと変質し、公的寺院のあいだでも伝統仏教の受け皿、禅以外の信仰のよりどころがしだいになくなっていく。大乗戒を根拠にあらゆる教派を兼学できる律宗のブームは、反動というよりもむしろ必然であり、ルネサンス(再生)だった。

 ちなみに、台禅律密を兼学した泉涌寺派は現在真言宗をうたっているが、おなじ四宗兼学でも、たとえば慈威恵鎮(1281-1356)を開山とする宝戒寺では天台円頓戒をそのまま強調し、天台寺院となっている。清涼寺式釈迦でしられる真言律宗(西大寺派)は極楽寺や称名寺が号しているようだ。現在ひろく律宗というまとまった宗派はないが、これもおそらく近世の宗分けによるものにすぎない。


覚園寺の蓮。谷間のそらが青白んでくるころ、境内の闇をてらしていた無数の行燈やロウソクもだいぶ消えがちになる。



夜が明けて。6時頃からこの写真のあたりで朝粥や飲み物の出店がでて再びにぎわいだす。ことし黒地蔵のわきに法要などをするための千躰地蔵堂が新築された。
 旧仏教があらたにとなえた、「釈迦へ帰れ」という律の思想は、このばあい原典に回帰することではなく、大乗仏教としての最深最奥の教義をひろく「民衆」とわかちあうことだった。

 忍性は大仏(現在、浄土宗)の住職となり、異国退散、雨乞いなど公共の修法をおこなったりするほか、桑ヶ谷(長谷)に療養所をつくるなど、伝説の僧・行基菩薩を意識した大掛かりな社会事業をくりひろげた。奈良に北山十八間戸を建てたことでも知られる。政財界に根をおろしたといちぶに批判はあったものの、律衆諸派はもちろんのこと、浄土系を中心に、ひろく諸僧の共感もあつめていたようだ。たしかに、お経の源流を研究するだけの現代の仏教学には、なんの意味もないような気もしてくる。

次回は「北条高時の時代」1・2・3。


No.11
No.13