トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第122号 


▲もちださんトップへ戻る

もちださんの鎌倉リポート No.122(2015年3月30日)



No.121
No.123



金沢道・2


 滑川は華の橋の下手あたりに鯉が群生していて、人影をみると自然とあつまってくる。水のない頃には浅瀬を這うようにのぼるのが「滝登り」みたいで面白い。

 川底は泥岩が固まったり溶けたりで、ところどころ風紋のような独特の曲線をえがく。じっさい水アカでぬめぬめしているのかもしれない。京都の高瀬川では長靴でそうじしている人がいるくらい水が少ないけれど、ここも砂岩にだいぶ水を吸われているかんじがする。これなら青砥が銭を落としてもすぐにみつかりそうなけはいだ。


 その青砥藤綱がすんだという青砥橋、泉水教会の虹の橋。東泉水やぐら(レポ36)の前にはもう老人ホームができていて、ちょっと雰囲気がかわった。稲荷小路の大江稲荷、十二所神社を経て旧道の細い路をはいると切り通しの入り口。滑川はしだいに路傍の沢水のようになる。

 太刀洗い水のさき、果樹園への岐れ道のところに支流が滝になっておち(三郎滝)、そこが最終的な車止めになっている。そこから先は砂利も敷かれない岩根道。ここは大仏坂などとちがって車道なみにひろいうえ、極端なカーブもない。だが山頂にちかづくと階段のような急傾斜になるから、荷車そのままでは難しい。しかも山水が路面を川底のように濡らしているため、平滑にしたらかえってずるずるに滑ってしまう感じがする。もしかすると左右の切り岸のうえから綱(ケーブル)を張ってゆっくり物資を落としていたのかもしれない。京都・琵琶湖疎水の「インクライン」ににた手法、というわけだ。


 物資はおもに六浦から鎌倉へ、上りと下りでは流通量が非対称になっていた、とおもわれる。六浦がわの登り口は、小切通しといって入り口付近にかなり高い防衛的な切り岸(写真)があるだけで、それより上は頂までふつうの山道になっている。六浦までは船、朝比奈までは牛車、ここは駄馬で通過して、頂からは橇にでものせて一挙に十二所がわの長い大切通しを落とした・・・。

 というのは、律令時代の官道にも、すでにそうしたしくみがあったと推定されているのだ。律令時代の官道は地形を無視してできるだけ直線にしようと試みており、山を断ち割ったぶぶんが掘割状になり、左右の路側帯に犬走りをもうけて綱をもったひとが荷物を引いたのだろう、という。



鼻欠け地蔵・侍従川
 さて朝比奈のバス通りにでてしまうともうあまり傾斜はなく、あとは海までまっしぐら。このへんにあったという上総介広常の塔は片付けられ、いまはあたらしいものにかわっている。そこが武蔵との国境いだったという、磨崖大仏(鼻欠け地蔵)はだいぶ消えかけていて、すこしゆくと侍従川が滔々と流れている。この名は「小栗判官」の照手姫が父・横山の折檻で海に捨てられ、六浦にながれついた。姫のゆくえをさがしていた心清い乳母・侍従というものが、ここで姫の死のうわさをきき、身を投げたのだという。

 じっさい姫は親切な野島の漁師に拾われたが邪険なばあさんに虐待され、松葉いぶしにされたあげく人買いに売られる。松葉いぶしの跡は姫小島、という名所になっていたが、現在では地名をのこすのみだ。



小山久犬丸(3)・宮犬丸(7)の墓
 かつての六浦湾は光伝寺あたりまでひろがっていて、「上行寺東遺跡(レポ61)」は岬のうえにたつ灯籠堂だったといわれている。小山若犬丸二児の墓は「よこしん六浦支店」の西にあたる信号あたりにみえる、小高いブロックの法面の突端、民家のわきの竹やぶの中。これも工事で元の位置から10m北に移設されているらしい。

 若犬丸の父・小山義政は宇都宮氏との抗争を公方・足利氏満にとがめられ、いらい執拗な討伐をうける1380。抵抗は十代の少年・若犬丸の代になって奥州南朝勢力までまきこんでつづけられ、ついに若犬丸は会津で自害、とらえられた二児は生きながら六浦湾にしずめられ、小山氏の正系は絶えた1397。
 
 供養塔があるのはこの下がかつて海だったことをしめす。かつて唐船が着いたとされる「三艘」の字名(あざな)はこのちかく、いまは侍従川のほとりにのこっている。



琵琶島
 「上行寺東遺跡」復元遺構がたつ峰すじの延長部には、泥牛庵や金龍院がたっている。「泥牛、海に入る」という禅問答にもとづいているように、周囲はもう海だった。

 現在の平潟湾はシーサイドラインのむこうにまで後退している。湾には瀬戸神社まえから琵琶島というささやかな小島がマッチ棒のように突き出し、案内板に昔の地形をえがいた古絵図がかかげられている。おだやかな海面のむこうには野島がみえる。瀬戸橋の奥にもかつて広大な干潟がつづいていて、六浦から瀬戸橋、姫小島をへて称名寺にいたる金沢地区は、野島にむかってのびる砂洲(洲崎)のていをなしていた。



龍華寺の鐘・称名寺
 洲崎神社に隣接して龍華寺がある。かつて瀬戸神社神宮寺として六浦山中にあった浄願寺、という寺が戦国時代になってすっかり荒廃していたのを、印融法印が弟子融弁に託しここに再興させた。

 伝説では能見台駅ふきんの海岸にあった長浜千軒という村が鎌倉時代の大津波によってながされ、このあたりに新しい町がつくられていた。前身の寺があった証拠に室町以前の古い寺宝が多く、なかには天平の乾漆仏まである。鎌倉時代に奈良から僧がもたらしたものなのだろう。浄願寺を「上行寺東遺跡」と同一視する説もある。

 天文年銘1541が刻まれた鐘もあるが、これは追刻でじつは鎌倉末期のものらしい。いつのまにか日は山の端におちて、デジカメの高感度モードでも肝心の銘文はほとんどよめない。称名寺についたときにはもう、門前街のちょうちんが寂しくともっていた。


No.121
No.123