トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第124号 


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もちださんの鎌倉リポート No.124(2015年4月5日)



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ウォーナーの碑


 裏駅の時計公園に英雄碑がたっている。GHQによれば「文化は戦争に優先する」などとして、古都を空爆から守った恩人、というふれこみだ。

 逗子の元高校教員・石井喬さんの著書「鎌倉に異国を歩く」などによると、そのような事実はないという。ウォーナー氏の作成した保護リストには、ただひとつ円覚寺舎利殿が記載されていたのみで、市民の命には一切触れていなかった。燔祭(ホロコースト)がおこなわれなかったのは、ただ単に順番が回ってこなかった、だけらしい。

 終戦間際、上陸作戦にそなえた稲村ヶ崎には、魚雷付きの銛を敵艦の底に突き刺すのだ、として絶望的な潜水特攻の陣地さえ、準備されていた。降伏後、沖合に停泊した米艦艇は小坪などの海岸にむけて砲撃、威嚇したという。


 じぶんの町に空襲がなかったからといって、感謝などすべきだろうか。そもそも、人命よりだいじな「文化」なんて、どこにあるのか。ただ順番がこなかっただけなのに、自分たちは正義によって選ばれた民、世界中が守ってくれた、とくべつな街・・・などと、なにかほこらしげ。「広島は軍都だから死んで当然」「自分以外は右傾化し、日本はいまも軍国主義」。そんな我が物顔の主張を垂れ流す【文化人】すらある。

 高見順さんの小説「胸より胸に」。焼け跡に住む天涯孤独の踊り子に、逗子鎌倉のお金持ちが恋をする。しかし彼女は「焼けなかった町」の胡散臭さに、どうしてもなじむことができず、もとの場末に舞い戻りのたれ死ぬ。

 市役所には「平和都市宣言」なる碑も建つ。ただ世界遺産の諮問機関イコモスの中国人委員は、鎌倉にはとくに保護すべき普遍的な文化価値などない、と主張した。


「君、わすれてはいけないよ。君が、戦時中、情報局といふ役所にゐたことをだね。」(獅子文六「てんやわんや」)。

 宮本常一の名著「忘れられた日本人」の一節には、某新聞社が主催した大規模な戦争博覧会へ村人を動員する、教職員のすがたがえがかれる。主筆は情報相。大手メディアには紙が優先してまわされ、ひとびとが燃やされるなか、銀座の一等地に優良資産をたんまりと築いてきた。・・・そんなのにかぎって、「戦争に抵抗した正義のメディア」だなどと、教育界からいまも聖書の扱いをうけている。

 「アメリカを撃てば、かんたんに戦争は終る」「そして世界に恒久平和が来る」。空論をあおった文化人もマスコミも、ほとんど裁かれることはなかった。それどころか、自分を非難するものはすべて右翼だと主張、365日たゆまず罪をなすりつづけてきたから、当の本人がなにをしたかさえ、わすれてしまっている。戦争責任には時効がない、などと自らのその舌で、言い続けてきた。



真夏の南極(市役所)
 ナチス、スターリン、毛沢東、ポルポト、東アジア反日武装戦線・・・【正義】の人は、常人とはひとあじちがった【奇抜なものばかり】を、代々くりかえし称えてきた。「意識の高い、とくべつな自分」を演出したいひとにとって、そのほうが誰にでもわかる知よりも、より高邁で選別的にみえるからだ。

 人気漫画の主人公が活躍するのも、たいていは世紀末。カルト教団が社会をばらいろに変える、そんなことを期待した文化人もあった。円覚寺松嶺院にねむるわかい弁護士一家の住所氏名・家族構成などを取材し、さるカルト教団幹部に逐一リークしてはしゃぎ回っていたのは、とある大手メディアの職員。

 正義か死か。そんな極論を強いる【正義】のひとびとは、異論をことごとく排除して理性的・客観的な自己照射をおろそかにしてしまう傾向がある。社会のしがらみ、軋轢などを一掃するのは戦争、そう信じた時代もあった。愚夫も山をうごかすのだ。



焼けなかった時計塔
 哲学はあるとき、各個人の意志の存在を否定し、古代の神話や未開人、精神疾患者、はてはチンパンジーなどの研究をとおして人類にかわらず根付く「冷たい構造」を解き明かそうとした。成金同士のセレブ争いなんかは、さながらゴリラの「マウンティング」、というわけ。

 未開人には時間や空間の概念がなく、神話の枠のなかでしか考えない。これを神話的思考、という。ひとは過去の英雄になりたがり、信長に、チェ・ゲバラに、風の谷のナウシカに自分を重ね、現実世界を夢物語のひな型へと都合よく「修正」する。天地創造の神話では、世界はなんどでも滅び、再生される。じゃまな人間はみんな死んで、自分だけがうまうまと生き残る。英雄神話に侵食された人たちは、自己実現の場をもとめ、ひたすら【世界の終わり】を待ち望む。

 「おれが先祖のチンパンジーだったとき、安○首相はおれの頭を殴った」。これはなにも中国や韓国のはなしではない。でたらめな「歴史」がうみだされる背景には、現実と神話とを区別できない大衆心理が、ひそんでいるのだ。



削られた碑文(横浜市某所)
 歴史認識に声を荒らげるのは学者たちではない。主にどじょうすくいなどを芸に持つ、政財界・マスメディアのみなさん方。なかには友好を憎悪や軋轢に変えようと日夜、奇妙な推理に没頭しているひともいる。

誰か云ふ人間至る処青山あり以て骨を埋むべしと而かも遠く郷関を距つて一旦行旅の客となる若し知己なくんば尸骨亦芥塵に委せざる可らず斯の如き人生の境涯豈憐むに堪えん哉○○○○○○○○○鮮民内地の文化に憧れて日に月に滋ゝ渡来す偶ゝ客死したる無名の士民に対して遂に吊するに縁なきを想ひ茲に納骨の地を相す夫れ尺寸の土甚だ裕ならざるも能く貧者の一燈に甘んじて永へに安らけく瞑せよ
  昭和八年仲秋    正五位勲三等功五級村尾履吉誌

 これを善意の無縁墓ではなく、「関東大震災における朝鮮人大量虐殺の証拠」なのだという。「この碑はもともと軍部が極秘裏に死体をうめた場所にたっていた」、「なにものかが削った9文字のなかに重大な秘密がかかれていた」・・・等々。



市民イベントにて
 空襲は、なかった。しかし守られたのはなんだったのだろう。高級和菓子のにあう、おしゃれなオーシャン・リゾート。こぎれいな町にふさわしくない、みすぼらしい寺はつぎつぎに建て替えられ、最新の墓地・または観光スポットに生まれ変わる。住民にとって大切なのは歴史遺産よりも自分、自作の「ものがたり」や「財産」のほう。

 「世界遺産」への再チャレンジが取りざたされているという。だが「世界遺産」にふさわしい普遍的な価値とはなんなのか。議論はなんだかしぼみがち。「ガイダンス施設」の計画はもとより、チラシの更新も滞っているようだ。すくなくとも「人類の宝」などというからには、市民以外にもすこしくらい、意見の取り分があっていいのかもしれない。


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