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もちださんの鎌倉リポート No.125(2015年4月8日)



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お伽草紙・1


 頼朝の娘・大姫と人質・木曽義高とのロマンスは、「吾妻鑑」の記述から「清水冠者物語」というお伽草紙へと発展した。

 十数年ののち、頼朝は大姫を宮中へ入内させ都貴族にとりこまれようとしていた。大姫の死も、つづく頼朝や一族の死も、疑えばいくらも疑う所があるのだが、義高との幼い恋や、ふたりをへだてる冷酷な父親という庶民的な物語が、その裏にあるすさまじい権力闘争の生々しさを、うまく覆い隠している。



姫宮墓
 義高の墓(木曽塚)は大船・常楽寺山門脇をひだりに入ったところの、裏山にある。ちかくの「姫宮の墓」は、大姫のものとも、開基・北条泰時の娘の墓ともされる。大姫(1978-1997)の死の前後については「吾妻鏡」の記録が欠落しており、ほんとうに義高をおもいつづけていたかどうかは、さだかでない。

 義高(1173-1184)の骨壷とされるものは、江戸時代に寺外のべつの塚からでたというから、木曽塚自体もほんらいべつのところにあったものだ。かれの父、木曽義仲といえば、羽越の押さえとしておかれた城介氏をたおし、ついには頼朝とむすんで平家をも破り、都から追うのだが、法皇や頼朝にうらぎられてほろぶ。義仲の家中から暗殺者として頼朝のもとにおくりこまれた母娘をえがくのが「唐糸草紙」で、これもいわば権力批判の産物だろう(レポ30参照)。



景清土牢やぐら
 頼朝暗殺といえば「大仏供養(奈良詣)」「景清」などの謡曲でしられる悪七兵衛景清とその娘・人丸の物語。浄瑠璃では遊女にまでなった娘を案じて頼朝に帰参。歌舞伎では家族愛から豪快な「牢破り」までする(レポ117)。

 その土牢というのが化粧坂下にあり、江戸時代にはこのやぐらのうえに尼の住む小庵があって、物見遊山の客に人丸ゆかりの像などを見せていた(あづまぢの日記1767)。人丸は亀ヶ谷の遊女の長者にあずけられた、とされており、安養院の人丸塚はかつて今小路の巽神社ちかくにあったのを移築したもの。もとは単なる「やぐら」であったり辻々の仏塔だったのかもしれないが、物語はときに史跡をつくる。

 なお近松作の「出世景清」では舞台を京都としており、裏切り者の義兄を殺す時に牢を破壊した。その後、斬首されるが清水寺の観音が身代わりになる、という筋は「盛久」ににている。「吾妻鏡」には、景清の兄・上総五郎忠光というものが二階堂で逮捕された記録があるだけだ。


 このような「物語」は教養のある隠者が匿名でつくっただけでなく、名もなき説経師、唱門師などをつうじて末端にひろがった。説経・唱門といってもお堅いものではなく、一文不通の庶民からテラ銭をとるため、ほとんど娯楽の笑話や哀話が中心となり、いまでいうテレビやマンガのようなものだった。

 したがって唱導じたいも、末端ではただの門付(乞食芸人)にすぎないものもまじるようになり、たとえば「自然居士」という作品では喝食とよばれる寺の少年が、説経のかたわら「鞨鼓」など、雑芸の限りをひろうする。室町時代の謡曲「小林」には、明徳記の物語(山名氏清の反乱1391)を、石清水八幡の回廊に寄生するめくら瞽女(ごぜ)がさっそく謡につくって参拝者に語ろうという場面がある。祭文語り、という山伏のようなものもいた。

 絵巻「天狗草子」では、放下とよばれる半俗の芸人が鼓を伴奏とし、「舞々」(男白拍子)を演じるさまがえがかれる。これは「舞の本」と通称する台本を千秋万歳ふうに舞い語るもので、のちには「幸若」という、大名好みの式楽にもなっている。「人間五十年」云々、という「敦盛」の一節は信長の愛唱歌として、時代劇かなんかでもおなじみだ。



楽琵琶(師岡熊野神社にて)
 琵琶法師の語り芸は古くからしられ(「洛陽田楽記」)、盲僧琵琶の系譜をひく筑前琵琶、薩摩琵琶などがわずかにのこるほか、浄瑠璃と総称する三味線音楽にも影響をあたえた。浄瑠璃とは義経外伝・浄瑠璃姫物語こと「十二段草子」の大ヒットから名づけられたという。ふるくは満足な楽器ももたず、路傍に茣蓙をしいて、扇や拍子木なんかでリズムをとりつつ、お鳥目をあつめたものもいた。さながらベトナムのカーチュー(歌札)や、韓国のパンソリのようなものだったのだろう。

 浄瑠璃発展のきっかけは三味線の発明。犬革の太棹、猫皮の細棹。日本独自の工夫により、野太い音、かれんな音、さまざまな音色をだせるようになり、義太夫、常磐津、清元、河東節など、数多くの流派がさかえた。



東京・回向院にある供養墓
 なかでも説経節や義太夫節では、人形芝居で門付け祝言やイタコのようなしごとをしていた傀儡師(くぐつ)という集団と提携。のちに文楽に大成される高度な人形芝居をきずきあげた。また各派はこぞって歌舞伎の伴奏にも進出、隆盛をむかえる。東京でも明治ころには、娘義太夫なんていう、女性による素語りの浄瑠璃がはやっていた。

 能の大鼓(おおかわ)は馬、小鼓は牛皮。犬革といい猫といい、末端では革細工をしめす「河原者」とよばれた、過去の芸人たちの出自の記憶を物語っている。無縁救済をかかげた藤沢遊行寺は「小栗判官」の舞台でもあり、ヒロインでもある遊女玉手を名のる者が晩年をすごした。近代はじめにも「名月赤城山」でおなじみ、国定忠治の子分なにがし、という無宿人が余生をおくったりしている。

 大磯の高麗山には「曽我物語」を語ったらしい虎御前、化粧坂の少将というふたりのヒロインが隠棲した、との伝えがある。物語はこうした身寄りのない人々の神話として、「わがことのように」歌い継がれてきた。


 ふるい形の人形芝居は三人遣いの文楽とちがい、ひとりか二人で人形をあやつる。すでに立派な玄人芸としてはのこっていないが、佐渡の「のろま人形」や鹿児島の「文弥人形」をはじめ、神奈川県内にも「金平人形」など素朴な民間芸能として、いくつか伝わっている。

 谷崎潤一郎は、文楽は人形をみるもので、聞く物ではない、といっているが私は感心しない。太夫の語りがおもしろくなければ、伝統芸能のような悠長なものに集中力がつづくだろうか。本場・上方では文楽離れがすすんでいるというが、昔の録音とくらべて、コテコテの地元なまりがへってしまったようにかんじる。大阪が文楽をすてた、というより文楽が庶民感情を軽視しエリートごのみの高邁な芸術に奉仕してしまった、のかもしれない。


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