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もちださんの鎌倉リポート No.127(2015年4月15日)



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義経塚


 藤沢本町、白旗の信号近くの交番の右の路地、児童公園のかたわらに義経首洗いの井戸、そのわきに義経首塚の碑がたつ。塚はもともとやや北方にあり、戦後の混乱期に廃物業者の韓国人が無断で破壊してしまった。碑のまわりに五輪塔の断片などが少しばかり活けられているのが、そのなごりなのだろうか。

 源九郎義経の末路は「吾妻鏡」などに記されているが、平泉で泰衡にうらぎられ、アルコール漬けの首となって鎌倉に送られた。「鎌倉大日記」には「首ヲ鎌倉ニ上セ藤沢ニ被埋ラル」とみえている。


 伝説ではいったん片瀬の浜に捨てられたその首が潮に流され、川を逆流して拾われ祀られたところが現在の白旗神社なのだという。本殿のある小丘じたいを塚とみなしたためか、首塚は弁慶塚と混同されたこともあるが、現在の弁慶塚はべつに「首洗い井戸」の東南、常光寺の裏側(八王子社跡地)にのこっている。

 といっても江戸時代の追善墓石のようなもので、写真左奥の石段をのぼると、庚申塔などの間にひどく剥落してならんでいるだけだ。児童公園に居候中の義経塚にくらべれば、多少森厳とした環境ではあるけれども・・・。このほか義経四天王のひとり、駿河次郎が生前の義経のスパイとして鎌倉に潜入、片瀬川で梶原景時にせめられ自害したというはなしが、舞の本(幸若舞)にのっている。



白旗神社
○源九郎源の義経、奥州高舘の城に楯籠り給ひ、終に自害し果て給ひしを、則ち御首に武蔵坊が首を添へて鎌倉へ登せ候ひぬ。夜の間に二つの首この所に飛び来たり、里人是を取つて見るに、大きなる亀の背にのり、声を出して呼び給ふ。里人肝を消し、鎌倉へこの事を告げしかば、則ち神に祝ひ社を立て、白旗の明神と崇め奉り候。 (謡曲「白旗」)

○五尺にたらぬきやうがいを、隠しかねたる無念さよ・・・なをえの太郎が申やう、判官殿と申すは、せいちいさく、いろしろく、むかふ歯そつて猿まなこ、あか髭にましますと承り候。 (舞の本「笈捜」)

○強なる者の自害のやうを見習へ源太、といふままに太刀の真ん中をつ取て、腹十文字にかき切つて、三十八と申すには片瀬河にて討れたる、かの駿河次郎清重を、誉めぬ人こそなかりけれ。 (舞の本「きよしげ」)



首洗いの井戸
 芸能はさまざまな伝承となってひろまった。近代になって、義経の首はにせもので、本人は海をわたってジンギスカンになった、などという物語さえ、うまれた。これにも原型があって、「御曹司島渡り」という御伽草子には、若き日の義経が蝦夷の千島のはてにゆき、喜見城の大王から兵法の秘伝書をてにいれ、それで平家をほろぼしたという別の話がみえている。

 まず「島渡り」の遺跡があちこちにでき、ついで学者やマスコミが現地をおとずれ、じぶんたちのストーリーに沿うように、村々の「いいつたえ」を逐一修正してまわった。もとより伝説にすがる村々が、ちょっとでも研究者たちの意向にそわず、記者たちの機嫌を損ねてしまったなら、いったいどんな災難がふりかかるか、しれたものではない。なにより東京から来た、えらい先生のお説に従っておけばまちがいはない・・・「キリストは青森に生きていた」なんて話も、きっとそうしてつくられたものなのだ。



片瀬川(境川)
 ひとびとにとって、「義経」とは何者であったのだろう。東北各地につたえられた生存伝説は、それほど古いものではなかった。舞の本や謡曲なんかでは、一の谷や屋島、壇ノ浦といった得意絶頂の英雄伝説でさえも、風化がすすんでいた。むしろ天涯孤独な孤児だったころの話や、忠臣がひとひひとり討たれてゆき、さいごは高館で自害する、その悲劇性ばかりが、これでもかと詳しくえがかれてきた。

 義経の子分には、身分のはっきりしないものがおおかった。さきの駿河次郎も猟師の出、伊勢三郎は山賊か樵夫、片岡八郎は船頭だったともいう。骨肉、というのは血を分けた兄弟のことだが、むかしの農村社会では次男三男などにはいっさい土地を配分しなかった。どれだけ働いても結婚すらゆるされず、「厄介叔父」などとうとまれて、村を去り放浪して身を持ち崩すものもあいついだ。股旅渡世、箱根八里の半次郎なんていうと威勢がいいが、しょせんは封建制度から拒絶された、ゆきばのないホームレスにほかならない。


 関西には、おなじく幸若舞でゆうめいな敦盛の塚をはじめ、平重衡の首塚など、いくつものこっている。これらも悲劇のものがたりだが、人口流動がはげしい首都圏とは、歴史に対する情熱がちがうのかもしれない。

 中世にさかのぼる、確実に古い石塔類をもとめて、遊行寺をたずねてみた。上人はご健在で、なにやら戦没者碑のあたりで法要をつとめておいでだ。逆縁ながらいくつか無縁墓を回ってみると、塔頭の赤門真徳寺というところの「三界万霊」碑に、古い板碑がひとつ、ねりこまれているのをみつけた。「応安元年二月」1368、とよめそうだ。

 ふるい塔片はおもに小栗堂長生院あたりにあつまっているが、あまりいいものがない。小栗の十勇士や愛馬・鬼鹿毛の墓なんていうのは、ちょっとやりすぎ。名号をきざんだ時宗板碑(1356、1377)もあるとされるが、展示はしていないらしい。角柱碑なら、さっき上人のいらしたあたりに有名な「怨親平等供養塔」がたっている(レポ56)。


 冠木門のわきにあるべつの墓地には、板割浅太郎の墓というのがある。国定忠治(1810-1851)の手下として人をあやめ、明治になって遊行寺の寺男、やがて勧進として余生をおくったという。このひともまた、物語からでてきたひとなのだ。

 この話は、「赤城の子守唄」としてしられるもので、賭場の密告者を殺させた忠治が、真相をきいておのれの不明を恥じ、その遺児をおぶって逃亡の旅に出る、そんな脚色がなされている。浪曲から映画に、そしてその主題歌(東海林太郎1934)の大ヒットによってあらためて注目をあつめ、全国区の人気を博した、という。次郎長物は虎造、忠治は春日井梅鶯というひとがオハコとした。


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