トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第13号 


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もちださんの鎌倉リポート No.13(2007年12月21日)



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北条高時の時代・1



瑞泉寺。夢窓国師をまねいた高時の時代はまさに文化興隆期。『吾妻鏡』の記述がおわった後のことであるのが残念だ。
 高時(1303-33)といえば、幼いうちに得宗を継ぎ、「有若亡(あってなきがごとき)」カゲロウのような人物とされている。政務はすべて内管領とよばれる家宰(長崎円喜・高資親子)がとりしきる。執権や連署といわれる一族の事務総長ももはや飾りである。自身はひねもす遊興ざんまい。無能の代表のような言われようだ。

 『つれづれ草』など諸書が賛美する泰時らの時代は質素を旨とした。時頼の母・松下禅尼が障子の破れを継いだとか、酒の「あて」が小皿についた味噌の残りだったとか、伝説的な清貧ぶりが讃えられている。梶原氏の末裔ともいわれる同時代の僧・無住の書いた説話集『沙石集』1283では、泰時邸の鰭板(はたいた=板塀)も隙間だらけであったという(巻三上2話)。築地も濠も土塁もなかった、というからいまでいえば古色蒼然とした旧家ていどだったのかもしれない。

 ところが『とはずがたり』の主人公が鎌倉で見たものは、得宗貞時(高時の父)の内管領・平頼綱の綾羅錦繍をちりばめた豪邸だった(巻四)。その邸は得宗屋敷の隅にあったというので、おそらく宝戒寺のあたりであろう。貞時もまた家宰に実権を奪われ「今はさらに世に無きが如く(保暦間記)」と評されているが、普通に考えれば、主屋である貞時の館も同じようにぜいを尽くしていたはずだ。むかいにあった将軍舘(親王屋敷=若宮大路幕府)の美しさは、『増鏡』にもみえている。


将軍舘跡。最後の将軍・守邦王(1301-33)は鎌倉陥落の3ヵ月後に変死。後深草院の皇孫だった。



仏日庵時宗廟。時宗の妻・潮音院覚山尼や貞時・高時らによって代々廟がつくられ、壮大な仏事がくりひろげられた。
 これを裏付ける一例として円覚寺仏日庵の公物目録(1320‐63)があげられる。テナガザルの絵で有名な牧谿をはじめとする、宋代美術の粋をあつめた奉納品が列挙されている。ただ、目録どおりのものは残っていないらしく、11月の恒例「風入れ(円覚寺・建長寺)」で展示されているようなものはせいぜい無銘か模写レベルにすぎない。超一流といえるような品は幕府滅亡とともにあらかた散逸してしまったのだろう。

 京鎌倉の五山は「中世国際交流の正倉院」の名に恥じない貴重な文物の数々をいまにつたえており、とりわけ「風入れ」では、高時らの自筆文書なども間近に見学できる。いっぱんに唐物趣味といえば足利義満であるが、かれが大内氏を倒し、鎖国状態の明をおだてすかして隷属外交をやったのは晩年のわずか数ヵ年。義満が好んだ「院体」とよばれる南宋宮廷派の繊細優美な絵は、武骨な文人水墨画がもてはやされる明代にはすたれていた。時代観からみても、東山御物といわれる足利将軍代々の珍宝の一部には、南宋がほろんだ直後にあたる鎌倉時代に流入したものが少なくないのかもしれない。

 宋元時代の代表的な輸入陶器である青磁の破片は、時期をかぎれば京よりも博多よりも、鎌倉の方が圧倒しているという。数億もするような優品にくらべれば、なるほどがらくたのようなものしか残っていないのは惜しまれるが、出所がはっきりしている点で考古学的な価値は、あやしげな骨董マーケットに出没する壷などの比ではないらしい。

 滅亡前後の南宋ではインフレが起こっていて、おもな輸出品であった陶器や銭、絹などが容易に手に入った。青磁というのは発色がむずかしく、かつては莫大な価値があったらしいが、越州の窯元ちかくに都が移ったころにはもう大量生産されていた。大仏の銅は鉛などの不純物を多く含むので質の悪い宋銭や輸入銅材を大量に溶かしたものだろうといわれている。むこうでは鉄銭までおこなわれたほどで、そうとうな銅が流出していた。室町時代には記録によるだけで10万貫、つまり数億枚単位の銭が何度も日本にわたっていたのである。


東勝寺跡付近に残る石組。山際の側溝のあとらしい。泰時発願、開山は退耕行勇(1163-1241)という。



夢窓国師の庭(瑞泉寺)。栄職をきらった疎石は評定衆・二階堂道薀の招きでここをひらき、自分の住坊とした。のち鎌倉公方の菩提寺となる。
 高時は夢窓疎石(1275-1351)を円覚寺住持としたほか、唐僧清拙正澄(1264-1339)や明極楚俊(1262-1336)らを建長寺に招いていた。この明極(みんき)和尚とともに来日した著名な文学僧・竺仙(レポ6参照)は、まず浄妙寺にはいった。また、南山士雲を開山とし崇寿寺という寺を弁ヶ谷に創建した。南山は「太平記」に長崎高資の子・高重が最期を悟ってたずねた、あの和尚である。寺はこんにち跡形もないが、おそらく同じ寺伝をもつ円覚寺伝宗庵が継いでいるようだ。

 後世の天竜寺船のような大船団は建長寺船(1325-6)が知られているが、古文書にはそのほかにも大仏造営料唐船(金沢貞顕書状)とか勝長寿院再建のための唐船などがしるされており、鎌倉末期にはすでに数多く行なわれていた。韓国沖で遭難した東福寺船には、元からの交易品である莫大な陶磁器・銭などがつまれていた(通称・新安沖海底文物)。乗員は殲(みなごろし)にされたが、たまたま沈没したために貨物だけは約700年ちかくものあいだ盗まれず奇跡的に残っており、墨書などから日元間の商船だったことがわかったのである。

 それにしても、国境を越えた文化交流はいまだ再侵計画にハッスルしていた元・高麗の不穏な政情を、とうに忘れてしまったかのようだ。『善隣国宝記』には「この間、両国通信の使あるべからず、ただ海舶の往来、互いに相拒まず」と記されているばかりである。

 かれは(24)で出家し、日輪寺殿崇鑑といった。そのころ、北条一門の歴々があいついで他界し、長老というべきひとは金沢貞顕(鎌倉合戦での享年、56)などごくわずかになっていた。兄の菊王は五歳で夭折している。出家し、身軽な法体にでもならなければ自分も若くして死ぬ、あるいは暗殺される、とでもおもったのだろうか。貞顕は文人肌であったため武家政治家としての評判はかんばしくなかったようで、執権を譲られたときには輿論のはげしい非難をあび、すぐに辞任している。不幸にも一族に人物がいなくなっていたことは、たしからしい。


高時の人物像を知る資料は多くない。『太平記』は代表的イメージだ。享年は(42)ともいうが、(31)が正しい。


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