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もちださんの鎌倉リポート No.131(2015年5月7日)



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一角獣をめぐって・1


 このカリフラワーのようなものは、段葛の狛犬。狛犬は干物屋の店先にもみられる鎌倉の風物詩のひとつ。

 狛犬はかつて師子(獅子)とよばれ、のち阿形を唐獅子、かつては角があるものが多かった吽形のほうを、狛犬というようになった。神功皇后が三韓を平定して「日本の犬とした」というつたえもあるが、「愚童訓」など元寇以降にうまれた説にすぎず、高麗(こま)とは本来、高句麗(?〜668)や渤海(698〜926)をさしたので、三韓(半島南部)とは何の関係もない。雅楽の唐楽・高麗楽などとおなじく、たんじゅんに左右、東西をさしたものなのだろう。



東国名勝志(復刻、新典社叢書1987)
 江戸時代の「東国名勝志」(宝暦十二年刊)に、蝦夷の千島のはてに高麗をえがいているのは、いにしえの渤海国とみなされる。渤海は自称「震」といい、おなじ発音の「金」「清(後金)」のルーツ。有名な高句麗好太王墓も、近代まで清が先祖の墓としてまつってきた。渤海王とは唐での冊封名で、日本向けにはつねに「高麗」の国号をなのり、奈良平安時代にたびたび国使をつかわしてきた。当時の外務省は儀式典礼をつかさどる「治部省」。都良香らが詩をかわし、歌舞などでせったいしたようだ。

 唐はタラスの大敗751ののちソグド人・安禄山による大乱755-63、吐蕃による首都包囲などの危機をへて、各地に軍閥(節度使)が割拠、すでに分裂ぶくみの衰相にはいっていた。日本は新羅と断交していたし、大陸の混乱をうけて遣唐使もとだえがちになった。のちに琉球の「万国津梁の鐘1458」には、「南島に三韓の地の利をあつめ、日明両国の橋渡しとして栄えた」としるされているが、渤海もまた、そんな役回りであったのかもしれない。江戸時代にも山丹交易はつづいており、「東国名勝志」の記載もゆえあることだったのだろう。



誠文堂新光社「日本文化史体系3」1937
 ちなみに朝鮮半島が独自に「高麗」をなのるのは中世、開城(北朝鮮)に拠った王氏高麗王朝(936?〜1392)がとつぜん言い出したことで、三韓との混同もこのころから。摂関時代の日本では当初、ほんらいの「こま」ではないから「大宋国の謀略」か「新羅の賊」による僭称だろう、と承認しなかった(小右記など)。コリア、という通称は大航海時代の日本で李氏朝鮮を「こうれい」「こうらい」などと呼んでいたからで、はじめkolayなどと表記されていたが、秀吉や家康が愛知なまりで発音したためとちゅうからkoreaに修正され、いまにいたっている。

 秀吉の朝鮮征伐で加藤清正は二王子をとらえ、余裕の虎退治をした。清正の軍は李氏朝鮮国をとおりぬけてすでに兀良哈(おらんかい・旧渤海)にでてしまったが、そのさい日本海のむこう西南方向に富士山をのぞんだ、「日本外史」にはそんな伝奇的な地理伝承ものこされている。渤海研究は戦前に一時さかんになったが、戦後はなきものとして封印されていった。



諏訪神社
 狛犬の称はまず「枕草子」などの仮名文学にみえ、「獅子の狛」という用例もあることから、たんなる獅子の女房詞にゆらいする、との説もある。

 ライオン(獅子)はインドあたりにまで分布し、伝説の一角獣ユニコーンはギリシャの博物学者によればやはりインドあたりにいるとされた。オリエントはながくヘレニズム(ギリシャ)文化圏となっていたため、獅子・ペガサス・グリフィンなどの図様がスキタイなど草原の遊牧民をへてシルクロード全域ににもたらされた。「獅子吼」などといって、ライオンが仏教のシンボルになったこともある。

 古代人にとって動物は霊性の象徴で、その属性は王や神々と容易にむすびついた。エジプトのカフラー王はスフィンクスにあらわされ、グノーシス系外典の古写本には「熊の顔のヤハウェ、猫の顔のエロヒム」なんて記述もあるという。北米ホピ族のカチーナ人形には「スイカ人間」なんてものもあり、未開部族のあいだでは動植物のイメージが文字(修飾語)のかわりにもちいられたことがわかる。いろんな動物の合体は修飾語の積み増しでしかないのだ。



権五郎社(胴布は虎柄)
 狛犬のルーツはまずスフィンクスのようなものを思わせるが、当初は木製で天皇の御帳台のカーテンのすそをおさえるなど、室内調度としてつたわったらしい。御帳台にはほかに懸け守りとして、もうひとつの一角獣であるサイの角がかざられた。中世の謡曲には、信州の犀川に犀という神獣がいたなどといっているから、サイもまた現実離れした、幻想のかなたに住んでいたようだ(観世アーカイブ「犀」)。

 サイの角は正倉院にもあって、漢方薬とされていた。江戸時代にはクジラの一種であるイッカクの牙が、ユニコーンの角「うにこうる」だとして西洋漢方に登場。もっともあまり効き目はなかったとみえ、もてあました記録も残っている。とうじ南蛮渡来の薬種にはミイラの粉末、なんてものさえあった。

 狛犬の調度は神社の神宝装束としてもおさめられ、上賀茂神社には神殿正面の壁画にもなっている。やがて石像物として門前、鳥居のわきにおかれるようになるのは、中国大陸における石人・石獣の流行に習ったものだろう。ふるい獅子は東大寺南大門にあり、宋の石工がつくったものと推定される(レポ51)。徒然草にみえる獅子狛犬は、こどものいたずらでうしろ向きに変えられたというから、仮に石像だったとしてもけして大きいものではあるまい。



東京国立博物館にて
 古代中国のくにぐににも宮廷や墓廟の調度として各種霊獣の像をつくる文化はあった。それが石造となるのは、漢代に匈奴とたたかった霍去病というものが、モンゴルの石人像にならって西安郊外の墓前に石人石馬をたてた、というのがさいしょらしい(劉慶柱ほか「前漢皇帝陵の研究」学生社1991)。

 いらい中華王朝にもエントランスにさまざまな石像をならべる文化が定着するが、おもしろいのはモンゴルの属領となった朝鮮半島で、通常の石人石獣のほかに石爺(トルハラボジ)という石像崇拝が、いまものこっている。仏像あつかいされているものもあるが、様態は不思議にも、ほぼ紀元前後のモンゴル石人そのままに先祖がえりしている。

 また「ヘテ(海駝)」というオットセイのような像も崇拝対象になった。アメリカ人が市電を通したさいには、謝罪のため線路にねころんで自決するものまであいついだ、という。ヘテの正体は古代中国で獬豸とよばれる羊に似た霊獣で、「法律」ににた語感から清代まで権力のマスコットとされてきた。これもまた、ほんらいは一角獣だったとつたえられている。



釈迦堂茶寮にて
 埼玉の高麗神社周辺に、近年ぞくぞく建立されているのは、韓国式の首狩り塚・ヂャンスン。なんでも高麗若光なるものが大磯に漂着し、ここに高麗王国を建国したのだという。前宮司は「親類が書いた小説」で「たんなる創作ロマン」だと明かしていたが、なんの、興奮するマスコミのいきおいはとまりそうにない。

 ちなみに同社はかつて山岳寺院付属の白髭神社だったにすぎず、中世に散見する高麗姓もじつは秩父平氏か丹党(皇別丹治比氏)。しかし、史実なんてどうでもいいのだ。韓流ブームを元手に観光客をあつめ、なんとしてでも町おこしにつなげたい。「百済王落武者の里」「楊貴妃の墓」など、おなじようなスポットは全国各地に散在する。もちろんうそばかり垂れ流すマスコミの対応に辟易するひともいる。歴史の偽造がいいかわるいかはべつとして、それもまた、まぼろしの獣を追うひとびとの、せっぱつまった思いではあるのだろう。


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