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もちださんの鎌倉リポート No.132(2015年5月8日)



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一角獣をめぐって・2



大倉稲荷
 きつねと鳥居でしられる稲荷社は、どこの街角でもみられ、デパートなどの屋上にもある。いまなおさかんな商売繁盛の守り神だが、奈良時代のはじめころに初めてまつられたらしい。

 賀茂県主久治良の子で、秦忌寸の祖・伊侶巨秦公という者が、餅を的として射たところ白鳥に化して飛び去り、神を生んだ。いまの伏見稲荷大社の山頂、稲荷山の奥宮に創祀された山岳神だった。白鳥神話は古い型だし、矢が男根をあらわす神婚説話は本家の賀茂神話や、三輪の丹塗り矢説話などとおなじだ。賀茂県主のルーツは神別氏で、奈良の葛城高鴨とも、三輪から出たともされている。



稲荷と海神(材木座・妙徳稲荷)
 伊侶巨が嗣いだ秦部のリーダーは、もともと羽田(波多)八代宿禰など、蘇我氏系の人物だったとおもわれるが、さだかではない。いっぱんに秦氏は秦の始皇帝の子孫、渡来系だなどと、ずさんな説明がなされているが、太子の忠臣としてしられる秦河勝ですら、「姓(かばね)」があいまいでたしかな系譜をたどることができない。帰化した者に与えられた秦姓については「新撰姓氏録」諸蕃の部などにもいくつかでているが、古代の品部は血族ではないから先祖はさまざま。
 
 京都・賀茂神社では毎年、神の子「御生(みあれ)」なるものを山中の御蔭神社からむかえる。稲荷ではこの慣わしが稲の霊魂とむすびついたものらしい。祭神は宇賀御魂神を中心に佐田(猿田)彦、大宮能女、田中大神(大己貴)、四之大神などとされる。宇賀神は弁天様の頭上に、老人の顔をつけた白蛇としてあらわされている豊穣の神とおなじものだ。三輪の神も、蛇であらわされる。



きつね(大蔵・築山稲荷)
 お狐さまは、かつては白専女(しらたうめ)などといって伊勢豊受神の使い(御倉神)とされた。豊受(外宮)は大御神の御饌津神(食事の神)でもあるから、古い時代の穀霊神のひとつ、ともいえる。このミケツ神が三狐神となったというのが、語源学者のみたて。

 密教ではこれが荼枳尼天(ダキニー)というインドの女神とむすびついた。ダキニーは白狐に乗り敵の生き胆をくうといわれ、現在では豊川稲荷の名でしたしまれている。鎌倉では南北朝時代に志一法印がこの秘法の使い手だったとされ、死んだ狐をまつったという志一稲荷が、八幡宮の西、路地をあがった中ほどにのこっている。密教ではインドの呪術とむすびつくものが多く、孔雀明王は毒蛇をくう孔雀のように災いを除くとか、馬頭観音は奔馬のように急速に願いをかなえるとか、そんないみがあったらしい。



志一稲荷
 だが、馬頭観音も後世になると、牛馬の守り神いがいのなにものでもなくなってしまう。神々の権威が低下するにつれ、神々の霊力や智恵の象徴であった動物は、単なる畜霊そのものへと転落し、いやしいものと蔑まれるようになるのだ。

 こうした【意味】の転倒は「言語の病い」などとして説明されることもある。ひとつのことばも、うけとるニュアンスによっては全然ちがったものになる、ということ。「狐憑き」とか「犬神持ち」などと忌まれたのは、かつて憑依をなりわいにしていた歩き神子などの、なれのはてであったのかもしれない。

 修験道で「飯綱権現」というのは高尾山などでまつられる、白狐にのった鴉天狗のこと。ダキニーににてはいるが、のっているのも獣神ではいかがわしさが増しているようにみえる。役行者の母が白専女とつたえられるのは、このあたりの信仰からでた付会だろう。そのほか、大阪の池上曽根遺跡近くにある信太の森の葛葉狐と安倍清明とのかかわり、吉野の忠信狐と初音の鼓など、狐にまつわる俗信はすくなくない。



長谷新宿・大蔵・十二所稲荷小路
 真言立川流というのは貴人の髑髏をまつる信仰があったそうで、ゲバチ頭でしられた西園寺公相というひとの屍首がぬすまれ、金箔をはられたうえに別製の目玉や長い舌までとりつけられた、という。男女和合してその汁を塗り、死体に生命力をあたえてゆくなんてことは、現代人にとってはただ、未開な迷妄としかおもえない。きつねの頭蓋をもちいる方法もあったらしい。

 「左道仏教」ということばは、中国による民族弾圧の口実となるなどした結果、現在ではもちいられなくなった。大江健三郎さんらと「新中国」にまねかれた開高健という作家は、チベットに固有の蛮行、との名目で幼女のミイラをみせられた。

 太平記にみえる天竺冠者という宗教者は、さまざまな魔法で信者をあつめるかたわら、亡き母の遺体を漆で固めてまつらせた。やがて時の後鳥羽院に摘発され、「水の上を歩いてみよ」などの拷問のすえ落命したが、ミイラ信仰のようなものは大陸では唐代いぜんからあった。



藤沢にて
 鎌倉周辺には、今もむすうの稲荷社がまつられている。佐助稲荷、鎌足稲荷などの名をもつものや名もない辻のほこら、屋敷神、どこぞの境内に集められたり山中に放置される石ほこら・・・すでに神札もうしなわれ、狐のおきものがなければそれと知れないものもある。江戸近隣のはやり神には、披官稲荷、三光稲荷、口入稲荷、疝気稲荷、鯖稲荷、穴守稲荷、茶樹稲荷など、さらに多くのヴァリエーションがあった。京都の千本には太閤出世稲荷なんかがあった記憶がある。

 「おんめさま」の項でふれた瘡守稲荷は、笠森お仙でしられる谷中の感応寺にもあったように、江戸のはやり神のひとつ。癌はもちろん、疱瘡などのできものを除く美容のかみさまだが、デキモノのなかにはひとに知られたくない病もあった。子育て観音とか鬼子母神などとの抱き合わせで健全さをアピールしてはいるが、色里の者の信仰もあつかったのだ。



智岸寺谷入り口
 福沢諭吉は若いころ、自宅の稲荷のほこらのなかから御札や神体をとりだして別の石ころをいれておき、拝む大人をあざわらった、などの武勇伝をおもしろおかしく明かしている。神仏に仮託して教えをかたっているのは僧侶や占い師にすぎず、そんな連中より自分のほうが偉いのだ。福沢のとく「自立」とは、そういう西洋式の自我を確立することだった。

 中国・韓国の口寄せを、毎日のようにくりかえすひとがいる。日本人に神が憑くのは自我がないからだ、明治時代に来日したローウェルはそう評した。たしかにすべてのインテリが手もなく「ばかな軍部」に「だまされていた」そんな時代もあったのだ。敗戦はさいしょからわかっていた、という。つまり名もなく実体もない、しょせんは空疎な石ころである、と知りつつも、文化人らは「その当時の社会の雰囲気」に、率先して「化かされていった」。


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