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もちださんの鎌倉リポート No.136(2015年5月21日)



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鎌倉十橋


 鎌倉十橋、といっても古い橋ではなく、川が埋められたり、道幅がひろがって欄干のいちぶがのこっている、そんな「はりまや橋」的ながっかり名所が多い。保田与重郎(1910-1981)が「日本の橋」にかいたように、構造物というよりも歴史、伝説、詩歌の中にのみ名を留めている、いわば思い出の影、のようなものなのだ。

 いちおう十橋をあげておくと須地賀江(筋替)橋、濫(乱)橋、夷堂橋、歌の橋、裁許橋、琵琶橋、逆川橋、針磨(針摺)橋、十王堂橋、勝が橋。このうち「橋らしさ」があるのは逆川橋(魚町橋のとなり)と夷堂橋(本覚寺門前)くらいなものだろうか。



華の橋
 勝が橋はいまはないが、お勝の方(英勝寺開基)を記念したものだから十橋の選定もさほど古い時期ではないらしい。岩船地蔵のさき、亀ヶ谷坂ののぼりくちにも「縁切り橋」というのがあったらしいが、これも暗渠になってなくなってしまったようだ。

 十橋のほかにも橋は多く、洋風の華の橋は「華頂宮邸」とともにかけられたもので、もとは飛び石だった。たもとの庚申塔あたりでは「さいと焼き(どんど焼き)」があったというから、明治以前はここも村のはずれだったのだろう。いまは鯉のたまり場。 

 青砥藤綱の銭拾い伝説でしられる東勝寺橋も、はしっこから川面におりられる。もっともそのむかし、サド侯爵の翻訳で知られる作家の澁澤龍彦さんがこのほとりにすんでいて、二階から川へ小便をした武勇伝を読んだからか、なにかと頭上が気になるところだ。


 宝戒寺橋はがっかり名所、「紅葉やぐら」につづいている。このやぐらは十六の井とおなじく、たこやき鍋のような納骨穴があるという。がけ崩れで埋まって、いちおう復元されたが中をのぞけないし、扉にさえ近づけないよう、生垣でかこむなど入念なくふうがある。そのうえ「ライトアップにより幻想的な雰囲気につつまれます」といった場違いな説明板が立っている。そのさきは袋小路で、大蔵稲荷へつづく道は断絶したままだ。

 歌の橋は謀反に連座した侍が荏柄天神に所懐の歌をよみ、それが実朝の耳に入り免責、感謝のため二階堂川に渡したという。横小路から金沢街道(六浦道)にむかう幹線道路にかかり、幕府に近く、川もほそいため、もともとそこに橋がなかったわけではあるまい。いまでは車道のほとりになって、橋らしさは半減。


 いわゆる「北条名越邸」裏門とされる、小切通しのうえにかかる赤橋は、ひざ丈に低い欄干がコンクリート製とはいうものの、橋板や根太はそうとう腐っていて、無明橋をわたるかんじがする。無明橋とは大分の国東・天念寺裏山にある有名な行場で、断崖のさけめをわたる石の一本橋。とはいえおちて死ぬのは7〜8mでも100mでもおなじこと。さいきん架け替えられたけれど、うちの近所の神社のかたすみの摂社にも、こういう橋板がぶかぶかになったままの立ち腐れの橋があった。

 仏教では「二河白道」ということが言われ、さとりへ到るほそい道の両側は断崖で火と激流がながれている。連獅子の舞でしられる「石橋(しゃっきょう)」というのも唐の清涼山にあるという、獅子がまもる伝説の一本橋。山伏の掟として、修行を失敗した者は「谷行」といって足手まといにならぬよう、谷に落としてころしてしまった。・・・


 虹の橋、というのをネットで検索すると「ペットが天国へゆくときに渡る橋」なんて説明が出てくる。明月谷でギャラリーをひらいている葉祥明というひとに、そんな絵本があるらしい。むろんこの橋のゆらいとはまったく関係がないようだ。

 古代、虹は蜃気楼と同様、蛇や貝などの「虫」が吐いた気と考えられ、虹の立つところには市をたてよ、という迷信もあった。近松の「傾城島原蛙合戦」では、天草四郎ならぬ七草四郎が蝦蟇の妖術で虹を吐かせるばめんがある。

 いわゆる六道絵のなかには「老いの坂」というのが描かれ(写真下)、人の一生が太鼓橋のようなものにえがかれる。その下には地獄極楽、すなわち死後の世界をえがいている。「熊野観心十界曼荼羅」というそうで、心字のひだりにみえる鳥居が天界(神々の世界)、その左下、犬に食われているのが屍体。



東京・世田谷の某寺にて
 橋はみちの端(はし)であり、浄土にわたる橋であったり(レポ92)、天の神庫(ほくら)にのぼる階(きざはし)でもあった。古代人は象徴世界と現実とをくべつしなかった。天橋立も実際には垂直でないし、高天原は天上であってそうではなく、リアルな大和であってそうではなかった。 

 「澤田川袖つくばかり浅けれど、恭仁の宮人、高橋渡す(催馬楽「澤田川」)」。律令時代には宇治橋、瀬田橋、山崎橋など大規模な橋がいくつも架けられたが、日本の風土では洪水でながされることも多かった。稲毛重成が供養した相模川の橋1198なども、長大なものであったことはうたがえない。円仁の「巡礼行記」によれば、長安近くの橋もおおかたは船をつらねた船橋にすぎなかった。

 マルコポーロの橋とされる北京の盧溝橋は石橋だが、北京の降水量が極端にすくないわけではない。日本の川は山に近く、増水しやすい。熊野川なんかは信じられない高さの枝にゴミがひっかかっていたりするし、明治にやってきた西洋の治水学者は「川ではなく滝」と評した、という。


 堤防を高くすれば橋も不自然に高く、河川敷を広く取れば橋梁もむだに長大にならざるをえない。どれだけ費用をかけたとしても、安全が買えるとはかぎらなかった。その費えを考えたなら、渡し舟や飛び石、何度流されてもかまわない貧弱な仮橋でまにあわせた場合も多かったにちがいない。鎌倉の川はほんの小川にすぎないが、それでも十橋なんかは、ひかく的ましなほうだったのだろう。

 ある国では粗悪な橋が横行し、なんども自己崩壊した。あるひとつぜん、前触れもなく崩れ落ちてゆくらしい。国と国との「友好」関係も、それと同じ。当座の見栄やカネめあてに、みかけだおしに架けたおぼろげな橋なんて、けっきょくは信用のおけないものなのかもしれない。川の上にとおした危険な高速道路を全面撤去するなどして、そのとばっちりがなぜか日本橋の景観問題にまで発展したのは、きおくにあたらしい。


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