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もちださんの鎌倉リポート No.137(2015年5月29日)



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墓碑について・1


 極楽寺の開山塔のかたわらにある本願御塔は北条重時(1198-1261)の墓、と伝えられている。古絵図には鞘堂に入っていたようで、のちに退転して石塔の部分のみを忍性墓付近に移したのだろう。

 重時は三代執権北条泰時(1183-1242)の弟で、兄の嫡子時氏・嫡孫経時らが早世したことから一族の長老として五代時頼(1227-1263経時の弟)の代まで重きをなした。六代赤橋長時の父、七代政村の兄、八代時宗の外祖父。「極楽寺殿御消息」など、老婆心にみちたその人柄をものがたる著作もある。「人に立ち交らはんに、大人しき人をば親と思ふべし、若からんをば弟と思ふべし・・・料理などする事あらば、人に参らするより我に多くすることなかれ」。


 四代経時(1224-1246)は佐助に蓮華寺をたてた関係から、その後身の光明寺裏山に本願塔がたっている。鎌倉末期の典型的な宝篋印塔である前者とは、まったく形がちがう。つまり近世に再興された追善墓であるが、これにははっきりと氏名戒名がきざんである。

 常楽寺にある泰時墓、明月院(禅興寺跡)の時頼墓などは石塔類の断片を寄せ集めたものでしかない。長寿寺の足利尊氏墓などもおなじだ。ただ寺院のつとめとして、願主の墓らしきものを整えてきたにすぎない。とはいえ、伝承より重いものが別のどこかにのこっているわけではない。あらたに復元された源義朝、上総介広常のもとの墓石などはもう、どこかへいってしまった。



伝冷泉為相墓(左)・日野俊基墓(右)
 これらの墓が「真正のものか」というと、きわめてあいまいだ。古塔としてほぼ完形をのこす重時墓でさえ銘文はないし、厳密にいえばこれも子孫がたてた供養塔とみられ、場所もかわって遺骨さえのこされてはいない。ただ追善墓であれば後世に適当な断片を積んだものでもいいわけで、それをにせものよばわりする理由はない。

 葛原岡の日野俊基墓はもともと五輪塔の断片があっただけで、いまの塔身は開発でうしなわれた大御堂の遺跡から適当なものをあつめて移築し、復元したのだという。もとの塚のほうも「無縁仏を供養するといつて方々から沢山五輪を集めたことがありましたです」「十数年前に扇ヶ谷の斉田といふ男が方々の山から甕や壷を掘り出した事があつたでせう。この塚などもその時掘られてしまつたのでせうよ」(史蹟めぐり会記録81)。



三浦義明墓(上)・小山田有重墓(下)
 材木座来迎寺には三浦義明(1092-1180)主従の墓がある。頼朝挙兵時、捨て石になることを選んで玉砕した忠臣で、寺はその追善にたてたとも、能蔵寺という古寺の後身ともいう。公方府時代にわざわざ三浦氏をしのぶ追善供養の塔を改め建てたとも思われないから、これも近在からの寄せ集めかもしれない。近世、能蔵寺あたりには焼き場があったらしい。

 町田市下小山田の大泉寺墓地最奥にある宝篋印塔は、小山田有重一族代々の墓とつたえる。塔自体はそれほど古くはないにしても、寺は有重の屋敷跡とされ、菩提寺としてその西北の地にたてられた高昌寺の後身とされるから、無下に無関係ともいいがたい。ちなみに江戸時代の著名な国学者・小山田与清はここの出身だが、本名は田中とかなんとかいって本当の苗字ではないそうだ。


 厚木市金田妙純寺(依知地区)には「星下り」の項でふれた本間重連の墓(写真左)がある。本間は海老名党の一族で、海老名市の有鹿神社の手前にある海老名氏記念碑のかたわらには、海老名氏一党の供養塔(同右)が新築されている。じつはこのあたりから塔片や板碑などがでて、屋敷跡に隣接する墓地地区だったと推定されている。住宅街になったため、こんなかたちに整理されたのだろう。

 大蔵の頼朝墓は場所こそ正しいがもとは法華堂がたっていて、墓石は江戸時代の建立。それも先年、少年犯罪などで無残に破壊され、あらたなものに換えられた(レポ15)。法華堂は近世までふもとの神社のところに存続し、いま西御門来迎寺にある如意輪観音などの仏像をつたえていた。



東京・回向院
 塔はもともと仏舎利をおさめた仏の墓が変化したもので、仏のすがたそのものを象徴していた。塔を見れば成仏できる、そんな思想から日本人は毎年彼岸に卒塔婆をたて、生きとし生けるもの、そのすべてにご利益が及ぶように願い、その作善の余慶として、先祖や自分の善縁にもなることを期待した。すなわち「法界平等利益」というもので、塔は個人の墓碑というより、みんなのための仏、仏像そのものだった。

 唯識では「物事に実体はない」が、「関係」はのこるとする。これを縁起、という。世界を美しいものに変えるには世界じゅうの悪しき関係を清算するひつようがあり、それがあらゆるものに功徳する行為につながる。それがかりに憎い敵や無縁の動物、であったとしても。「在々所々に於いて敵御方、箭刀の水火(*苦しみ)の為に落命せり。人畜の亡魂、皆な悉く浄土へ往生せしめんが故なれば、此の塔婆の前を過ぐる僧俗、十念有るべき、てへる也」(藤沢敵味方供養塔)。



伝猿渡氏墓(無量寺)・城主墓(東漸寺)
 横浜市の佐江戸無量寺は「綴党」の項で紹介したが、裏山は佐江戸城といっていまは親類の畑かなんかになっている。住持の墓の中央にたつ風化した塔は、鎌倉時代いぜんからここをおさめた、綴党・猿渡氏のものかという。

 となりの別の寺に佐江戸城主の墓となのるものがあるが、これまた別の武士で「竹尾元孝公」などとかいてある。「公」とよぶのかはあやしいが、近世領主竹尾氏は、三河国額田郡竹尾出身の直参旗本。いっぽうの猿渡氏も無量寺鎮守・杉山神社の祀官として社格の向上に尽力、近世までいきのこってきた。時はうつり城や領地は人手にわたっても、祭祀だけはてばなさなかったらしい。


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