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もちださんの鎌倉リポート No.138(2015年5月31日)



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墓碑について・2



神武寺
 逆縁ながら跡とぶらいてたび給へ、というのは能によくでてくるせりふだ。縁のない墓を逆縁という。仏教にほんらい、お化けはない。神道ではみな「神」だが中国神教(道教)では死霊を「鬼」という。「おんめさま」の項でふれた姑獲鳥なんかも鬼で、中国の作家・葉蔚林の「五人の娘と、一本の縄」には難産で死に、ウブメになった姉の哀話が、えがかれる。

 神様は祭っておくかぎり、どのような猛霊(荒御魂)もやがて名も知れぬものとなって消えてなくなる。中国にも「封神演義」なんて小説があるが、鬼神は触れてはならないパンドラの函のようなものなのだ。

 お城の跡などに石仏や墓石が散乱しているのは、かつて霊魂の存在を否定した武将のしわざ、ともいわれていた。ただ実際にはお寺の石垣などにもおなじことがおこなわれていた。墓直しかなんかで、いらなくなった石材を処分することはむかしからあった。


 たとえコンクリの無縁塔に練りこまれてしまったものでも、のこされているだけまし。横浜市日吉本町の金蔵寺の無縁塔に、初期浮世絵のような曲線が、ちょっといろっぽいものがあったが、元禄の年号がきざんである。

 イギリスの文人医師ブラウン(Sir Thomas Browne1605-82)は、発掘された古代の火葬壷をみて「壷葬論」というのを書いた。ピラミッドをたてたファラオの遺体ですら、けっきょく漢方薬にされてしまったではないか。手厚く葬るなんて無意味だ、云々。

 日本には金目のものを埋める習慣はないのに、盗掘された例は多い。あるひとが「たちんだい」から出た大甕を川で洗ったところ、大塚川から片瀬海岸まで真っ赤に染めるほどの顔料がでた、と「としよりのはなし」という本にみえている。じじつとすればこれは水銀朱で、漢方では辰砂といって、弥生時代から江戸時代まで、防腐剤として金持ちの墓郭につめられた。いまでは高級な朱肉などにつかわれる。



日昭・日朗の廟
 劉慶柱ほか「前漢皇帝陵の研究」という本によれば、古代中国には盗掘を専門にする役所まであったという。日本でも高師直が聖徳太子の廟を荒らしたり、泥棒が天武天皇陵にはいって持統天皇の遺骨をばらまいたりした例がしられる(史籍集覧「阿武幾乃山陵記」ほか)。一説にこれは、立川流の外法に天武天皇の頭蓋骨をつかうためだったともいう。

 そもそも墓なんか要らないし、遺骨なんてなければいい、と思う人がいても不思議はない。五輪塔のほぞ穴なんかに、少量づつ火葬骨をおさめたり、紙に包んで仏像の胎内におさめたりするのは、分骨というよりはかなり散骨にちかいものだったのではなかろうか。歴代の天皇にも、山中に骨をすてさせた例がある。



三会寺(左)と観護寺(右)
 塔頭というのは高僧の墓前をしたって弟子がひらいた(主に禅宗の)子院のことで、塔所ともいい墓塔がのこっているところもある。上掲の写真は日蓮宗の六老僧の廟で実相寺と安国論寺のものだが、じっさいの墓石ではないだろう。

 戦国の学僧・印融法印(1435-1519)の墓は二ヶ所あり、法脈をつたえる小机三会寺の歴世の墓にならんでいるもの、隠居寺としてひらいた観護寺のもの、いずれにも「永正十六年」云々と命日を刻んでいる。亡くなったのはたぶん隠居寺のほうだろうが、分骨があったとみても大過ないようだ。三会寺のは世代墓の左隅で、後の世代墓よりはちいさく、古式をつたえている。



黒田長政の墓
 東京広尾の商店街の突き当たりにある祥雲寺に、宝生九郎の墓があるときいた。墓地をさがしてみると、まずめについたのは黒田長政(1568-1623)の墓。墓は数箇所にあり、分骨とおもわれるが大名のものだけにさすがに巨大。鞘堂にはいっているので全貌すらうかがえない。寺は黒田藩の江戸屋敷から移転されたもので、いつしか一般の墓、柳本織田家など他藩の墓も、ならんでいる。禅寺らしく板卒塔婆には梵字や名号・題目なんかのかわりに、「古桶の底ぬけはてて 三界に一円相の輪もあらばこそ」なんていう盤珪和尚の和歌などを書いたものもみられる。

 宝生家の墓(下写真奥)は庫裏できいて、ようやくみつけた。土瓶か羽釜のような、落雁のような、だるま落としのような、なんともいえないかたちの石を組んだ二基の笠塔婆に、たしかに寶生家とほってあり、現家元の塔婆もあがっている。


 九郎知栄(16世1837-1917)は江戸時代、すでに若き家元として千代田のお城にも参上した名人で、梅若実とともに明治に壊滅した能楽界を復興にみちびいた、偉人でもある。深川に住み、相撲や金魚をあいし、弟子にも数多くの伝説的な名人をそだて、鏡花の小説のモデルにもなった。作家のふるさとでは加賀宝生といって、二階から謡が降ってくる、といわれるほどさかんだったのだ。

 特筆すべきは、大正時代まで長寿して最初期の商業レコードに何枚も吹き込んだこと。頑固者だが能舞台の電灯化には反対しなかった。錦絵にもえがかれ、筆まめでいろんな談話ものこしている。そろそろ百回忌。墓碑はもっとふるい寛政四年銘1792、だいぶ黒ずんで風化がすすんでいる。


 著名人のお墓をめぐる、そんなマニアもあるという。鎌倉には作家の墓がおおく、凝った石もあるようだ。材木座霊園ののぼり口には「眺望絶景 海・富士山一望」なる客寄せアーチがかかっており、てっぺん付近は眼下にひろがるパノラマだけでも、みる価値がある。

 何年か前のこと。あれあれ、浄光明寺の券もぎりのおじさんがちょっと大三輪和尚(1942-2006)ににてる、なんておもっていたら、当の和尚はすでにお墓になっていた。なんでも出掛けに転んで突然なくなったのだという。たいして面識があるわけでもないし、わざわざ墓参するほどのファンでもないわけだが、まだいきている、とおもった人のお墓にたまたま、めぐりあうなんてことも、まれにはある。有隣堂「中世鎌倉の発掘」なんかは名著。


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