トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第139号 


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もちださんの鎌倉リポート No.139(2015年6月5日)



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地蔵


 遊行寺長生院にある智恵地蔵。智恵をさずかろうと石をのせてゆくひとが多い。説明はないから、勝手にそうしてゆくのだろう。めずらしく福々としていらっしゃる。

 鎌倉近辺の寺院には「どこもく地蔵」「黒地蔵」「矢拾い地蔵」「経読地蔵」など、鎌倉時代から公方府時代にかけてのふるい仏像がのこる。石仏にも浄光明寺や光明寺に網引地蔵などがあり、やぐらにも「団子つき地蔵」「掘り出し地蔵」「金剛窟地蔵」などが彫りこまれている。その他「矢柄地蔵」「塩嘗地蔵」「おこり地蔵」「斎田地蔵」・・・近世のものもふくめると、仏像ではいちばんおおいのかもしれない。


 これは藤ヶ谷の飯盛山地蔵。個人のお庭にまつられたもので、ひだりにみえるのが扇の井戸。鎌倉には個人の庭が遺跡に面しているばあいがあり、たたりなんかを気にするひとがいれば、いまもお地蔵さんがお守りしてくれる、そんな構図。

 飯盛山の前はふるく「大友屋敷」とつたえていて、「仏種慧済禅師中岩月和尚自歴譜」すなわち中巖円月(1300-75)の自伝・建武四年1337の項に、「大友吏部(*式部丞氏泰1321-1362)が乃祖の墳なるを以って藤谷に請うに、住まふ。」とある場所に相当するようだ。文和元年1352には台風で大破したこの庵を修築した旨がみえ、中巖禅師はこの場所が気に入ってけっこう長くすんでいたらしい。山頂に稲荷廟があったようだ。大友氏の子孫はキリシタン大名としてもしられる。

 このへんには冷泉為相の藤谷屋敷もあったはずだが、くわしい場所はわかっていない。浄光明寺の古地図は相馬やぐらのあたりまでで切れている。


 亀ヶ谷の岩船地蔵は元禄時代のぼろっちい辻の堂が建て替えられて、雰囲気がすっかりかわってしまった。放火や倒壊の心配があったのだろう。現在窓から見えるのは「お前立」で、かつては床下におさめられていた舟型光背の石仏が秘仏であるらしい。通常「岩船地蔵」とは台座に舟がつくられているが、それは享保年間にはやったもので、「船乗(船守)地蔵」として星月の井のあたりにもある。こちらはより古く、いわれは不明。

 伝承では頼朝の娘・大姫(1178-1197)の守り本尊、とされるが、一説にはその妹・三幡(乙姫1186-1199)にかかわるものか、ともいう。吾妻鏡には「今夜戌尅(*22時ごろ)、姫君を親能の亀谷堂の傍らに葬り奉る也」とみえる。中原親能は姫のめのとで、その日に亀ヶ谷の自邸にあった持仏堂で出家していた。

 頼朝は大姫の入内工作をすすめていたものの、急死。ついで次女の三幡を女御とするまで話を詰めていたが、自身も三幡もたてつづけに死んでしまった。毒殺のうたがいもないわけではない。都貴族にとりこまれるのを鎌倉武士がきらったのか、後鳥羽院がわの意向だったか。頼朝がさかんに工作したのが、反幕的な院の近臣、丹後の局(高階栄子)らだった、というのも皮肉なことだ。


 延寿堂地蔵は亀ヶ谷坂きり通しのなかばにある。延寿堂とは無常堂のことで、不治の病にかかった僧などが収容されたという。中世には感染をおそれるあまり、病者を遺棄することも辞さなかった(レポ24)。そのうち悲田院などの救護施設が生まれ、うごける者は自助努力として無縁の死体のかたづけなどにたずさわったらしい。葬儀場であるとともに、さながら「死を待つ人の家」でもあった。

 坂は境界であり町の外にけがれを流す場所でもあった。坂のたもとの橋(現存しない)がかつて「縁切り橋」とよばれ嫁入り行列には踏ませないよう、むしろを敷いた、などという話も明治までのこっていた。かつてはそこが村の結界だったのかもしれない。立ち入り禁止になっているが、現在はたんなる墓地であるようだ。


 由比ガ浜通りの六地蔵には芭蕉の「夏草や・・・」の古碑やちっちゃい雀像なんかとともに、饑渇畠とかかれた碑がたつ。かつての刑場だったともいい、浜の悲田院と推定される和田塚にもちかかった。二階堂には「さいなん畑」などというのもあり、やはり石塔がころがっていたそうだ。

 京都の六波羅には六道の辻、というのがあり、松原(旧五条)通りはそのさき、旧清水坂になる。いまこそ「ハッピー六原」なんてスーパーもたち、大通りと交差して清水寺までずっと町が続いているが、むかしは結界でそのさきは墓地となっていた。六波羅蜜寺には髪の毛をもつ定朝様の地蔵がのこり、辻の堂は水子供養西福寺といっているし、幽霊が買いにきた幽霊飴なんて店も立っている。京都の地蔵盆では町の地蔵にお化粧をし、こどもたちにお菓子なんかを配る風習がある。むかしは7歳までは神、などとされ、死んだ子も生きた子も区別なく、地蔵さんに守られているとかんがえた。


 上の一石づくりの六地蔵は九品寺入り口にあるもの。下は遊行寺のもので、大名が逆修のため等身大につくらせた。地蔵は六道輪廻のそれぞれをすくうとされ、墓地のいりぐちにたつことも多い。

 六道とは死後に生まれ変わる天・人・修羅・餓鬼・畜生・地獄の世界。みつのせ川、すなわち賽の河原の三途の川で一次審査をうけ、正塚の婆さんに衣を剥がれ、橋か、浅瀬か、暗い淵をわたる。閻魔十王はインドの死神ヤマ王などに、唐土の泰山の神、星の神などが習合したもの。鎌倉時代になって、日本ではさらにこれを「地蔵十輪経」と合体させ、閻魔は地蔵の化身としてひろく定着するようになった。また阿弥陀仏や十三仏とむすびつける説もうまれた。つまり裁判官と救済者が同一視されているのだ。



座間・星谷寺
 首のおちた地蔵は廃仏時代のかたみでもあり、いまだ少年犯罪の被害もあるらしい。迷信打破、聖像破壊運動(イコノクラスム)などというと聞こえはいいが、幸福な人間へのつよい嫉み、怒りがこめられていることは、猫を殺す人間とか遺跡破壊をくりかえす幼稚な宗教集団などと同じだ。エスカレートする自己顕示欲の亡者たちは、カネに狂うエリートだけにかぎらない。

 「じぶんたちを排除してきた、社会への復讐」「おれを捨てたおふくろへの、いいようのない怒り」なんていわれたら、地蔵さんもだまって身代わりの首をさしださずにはいられなかった。もちろんこの程度のことで、敗者の怨念が浄化されるかどうかは疑問かもしれないけれど、どんな文化も美しいものだけでできているわけではない。


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