トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第14号 


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もちださんの鎌倉リポート No.14(2007年12月22日)



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北条高時の時代・2



腹切やぐら。現在ちぐはぐになった宝塔は、大正時代までは完存していた(「市史」)という。
 金沢文庫称名寺につたわる北条貞顕の寿像(生前の肖像)が着ている狩衣は、金泥で唐草が描かれている。袿は白地に銀泥で竹紋をあしらう。中世の絢爛な衣装は諸外国にも衝撃を与えた。西洋画家が支倉常長をえがいた油絵が残っているが、ああいう派手な衣装のルーツはもう鎌倉後期に出来上がりつつあったのだろう。

 鎌倉幕府が滅ぶ直前、天から火が降ったとのいいつたえがある。旧約聖書のソドムのたとえではないが、町の栄華そのものが滅亡の原因だった、そう考えたひとがいたのかもしれない。安東氏の内紛では、内管領の長崎円喜(平高綱。故・平禅門頼綱の甥)父子が当事者双方からわいろをとっていた。人望のない貞顕は円喜にとりいって高時を出家させ、泰家(高時の弟)らをさしおいて執権の座を得たのだから、そうとう金をつんだのかもしれない。貞顕が本拠にしていた金沢は鎌倉の外港として莫大な富があつまる場所でもあった。

 さまざまな工芸技術者は町屋にすんでいた。町、とはもともと都の官に属する職人や官奴がすむ長屋区域(区=まち)のことであり、しだいにリストラがすすんで民業を兼業するようになった。官で直接養うよりもそのほうが効率がいいからである。商売の特権(職〈しき〉=座)を与えてみかじめ料をとれば物品を納入させるのにもはるかに安く上がる。武士の都でも、後世の城下町でも、町屋を構えて商工業者を抱え込もうとした。

 のちに士農工商、というように、兵農未分化の良民に由来する士農にたいして官奴をルーツとする工商は卑しいものとかんがえられた。特に流通を独占する商人はものの値段を吊り上げる悪賢い者として中世、洋の東西を問わずきらわれた面がある。ただ、現実には平安時代にすでに町の長者・有徳人などという富豪がでてきていた。商家の主人には女性もおおく、鎌倉で言えば「頬焼阿弥陀縁起」の町の局なんかがそれにあたる。


大町四ッ角から米町遺跡を望む。右に曲がると小町、左が辻町という繁華街にいたった。



魚町橋(いをまちはし)。大町四ッ角の南にある。なまって「いよまち」とも。中世の魚町は甘縄にあったらしい。
 鎌倉のふるい町屋の名残は材木座や魚町橋などの地名にわずかにのこるにすぎない。そのほか絹、炭、米、檜物、千朶積、相物、紙、馬商、桶結、油、塩、銅、唐傘、素麺などの座があったという。鎌倉時代半ば(1251-65)には、大町、小町、米町、亀谷の辻(武蔵大路下)、和賀江、大倉の辻(須地賀江橋)、気和飛坂山上、穀町、魚町などをのぞいて「小町屋」を禁じているので、そのころには自発的にやってくる商工人が各所でおもいおもいの商売を営んでいたのだろう。小町屋とはいまでいう縁日の夜店のように、路傍や空き地にもうけたバラック屋台の店をさすようだ。

 「徒然草」141段には、「(都には)乏しく叶はぬ人のみあれ・・・吾妻びとは・・・賑はひ豊かなれば」云々という記述もある。沽価法(物価統制法)をもちいていた都をさけて、おおくの商品が自由な鎌倉にあつまっていたらしい。町の人口も、市中の酒壷数からの推計らしいが、いまよりずっと稠密だったとする研究もある。

 銭の価値は都で一石一貫文(1000枚)とする物価統制が行なわれていたことから、いまの価値にして一文は100円玉以下とかんがえてよいと思う。このころは日本の銭ではないのでホンモノ(宋銭)もニセモノ(内外の鐚銭)も区別はないが、当時の技術から考えて、ほとんど銅銭として調達できる原価に近かったのではないかと推定される。へたに質の悪い鐚銭をつくれば、「撰銭(えりぜに)」といって庶民が流通を拒否し、足が出てしまう。これでは、悪性のインフレなどおこりようがない。

 かつて、皇朝十二銭とよばれる正貨が日本にもあった。しかし一文を数千円に設定し出目を稼ごうとしたためにインフレに陥り、庶民が銭の使用を拒否、ついには新銭への両替(デノミ)に抵抗して銭を鋳溶かす破銭運動までおきてしまった。そんな律令時代よりも、自前の通貨を持たなかった中世社会の方が、通貨経済としてははるかに健全なものになっていたことはたしかだとおもう。ときおりカメにはいった莫大な枚数の退蔵銭が日本各地で発掘されているが、これはたぶん中世社会が軽いデフレですらあったことを示している。中国から見栄えもよく「原価」の安い銭が大量流入するのには絶好な環境だったのだろう。


滑川。青砥左衛門というものがわずかな銭を大金を投じてひろったことを讃える寓話がある。



東勝寺跡。未整備の草むらとして鉄柵に囲まれている。この碑のそばに腹切やぐらがある。

【注】一般にいう「北条九代記(群書類従)」二巻とはまったく別の本。有朋堂文庫所収。

 西は鎮西探題をおき博多を、北は奥州奉行を置いたほか津軽の津(十三湊)を支配し、京には六波羅をおいた。さいはての十三湊でおこった津軽安東氏の内紛を始末できなかったことが「幕府の命取り(天地の命の革むべき危機の始め)」になったことや、楠正成ら街道筋の悪党がもともと高時の家人だったことは、浅井了意の編著とされる「十二巻本・北条九代記【注】」にすでにみえているが、これも近代になってしだいに実証されつつある。流通にかかわるあらたな武士団の成長は、農本支配のあきらかな変質を意味していた。

 旧来の封建武士層の没落は、均等相続によるといわれる。次男三男や妻娘などにも相続を認めた結果、所領が小さくなって生産効率も悪くなった。身分階級に見合ったぜいたくな生活をしたくても、農業主体の生産体系に依存する良民たちは、そもそも商業資本の爆発的な増大に対応できるほど生産性をアップすることなど、物理的に不可能であったろう。

 経済振興、均等相続といった人気取り政策がかえって社会不安をうみ、いっぽうで多くの所領が質入されるなどして裕福な商人に怨嗟が集まった。会計監査などが発達していなかった時代であるから、徳政令などで一時的に打撃を受けても、町人たちはしたたかに肥え太っていけたのだ。その富はどこへゆくのか。きれいなべべを着るひとびとがまっさきに疑われたのもむりはない。

 死の前年、高時が浄智寺に奉納した鐘に、清拙正澄は地獄の苦しみをも救う鐘の徳をのべたうえで、こんな銘文【注】をのこしている。「・・・皇風浩蕩 仏日昭明 兵戈永息 国界隆平 梵刹崛興 檀門光大 保我関東 億千万代 ( 朝廷の徳は広く満ちあふれ、仏教の慈悲はあきらかに照らしている。ゆえに戦争は長くおこなわれず、国内は栄え治まっている。寺々は興隆し、檀越〈北条家〉のほまれも高い。これからもわが関東をお守りください、永遠に。)
太歳壬申正慶元年解制前一日(1332年6月14日)
・・・皇帝万万歳 」。


高時と遊んだ異形異類のイメージが立つ半僧坊は建長寺の奥、明治の創建。

【注】鐘は明治に失われ拓本のみがのこる。「市史」。



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