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もちださんの鎌倉リポート No.143(2015年6月20日)



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 お寺は夕方になると閉まってしまうから、町はずれに来るのはたいてい夕方のことだ。山蔭には夕闇がはやくおとずれる。が、海辺はまだ眩しいくらい照らされている。総体的にみると街は白い。絶景というにはあまりに地味ではあるが、熱海とかアマルフィほど、俗悪でもない。

 国道134号の掘割は稲村ガ崎ふきんにつくられた近代の切り通し。中世には十一人塚をへて稲村道(レポ18参照)へむかうか、極楽寺の旧切通しから旧市内にはいるほかなかった。


 稲村ガ崎の公園のしたは、ちょっとした磯になっていて、引き潮のときなどは薄い浜地をとおってほど近い岸壁に残った、大戦中の壕などをみにゆくひともいる。かつては「新田義貞の奇跡」を実証するため、大森金五郎(1867-1937)といった学者までが、腰まで海水につかりながら海中突破をこころみたという。

 波のない、大潮の日を選んだのだろうが、いってみれば伝説の悪所「親不知子不知」のようなもの。現在ではやや地形も変わってしまい、たぶん当局の許可を取ってまでチャレンジするひとはいないだろう。


 公園の反対側(旧市内がわ)は歩道の延長のようなかたちで遊歩道ができているが、岬の手前でいきどまりになっている。ぼろぼろの階段のようなものは柵で封鎖されているから、水辺にはおりられない。

 坂ノ下あたりの浜地は埋め立てられ、護岸ができ防波堤も突き出していて、由比ガ浜の砂地はかなり手前でとぎれている。ここらへんにある岩の名前をむかしきいたような気がするが、わすれてしまった。澪の中には、潮の流れを左右するきけんな岩が、まだいくつか沈んでいるのだろう(写真下)。

 ベンチはあるが日差しをさえぎるものはない。紫外線によわい羊歯のような人や白内障のお年寄りには過酷な空間。眺めはいいが永くいると、たいめいけんのおやじのようになる。


 公園側は、かつて開国前後に外国船見張り所がおかれ、やがてそこをまもった長州藩の出身で明治の元勲・井上馨(1836-1915)というひとの別荘となっていたという。古写真にはかなり殺風景なようすがみられ、いくつかあった井上の別邸でもつかわれた痕跡がうすい。ただ現在と同様の広大な削平地業がみえるので、たぶん見張り所時代の工事によるものとみられる。

 井上じしんは新田義貞の崇拝者で、海防のため群馬の新田あたりに遷都すべきとの持論があったと、なにかのブログでよんだことがある。公園には井上時代の碑1894ものこるが、ざんねんながら剥落がひどくてよめない。


 このへんの浜には真っ黒な砂鉄が分布していて、これを磁鉄鉱という。つよい磁性もつものの、すでに安定的な酸化物(4酸化3鉄)になっているため、溶けることがない。岸壁から軽い砂がながされて、重い鉄分がしぜんに滞留し、濃縮したものらしい。

 鉄はベンガラ塗料など、縄文時代から顔料などとして利用されていた。たたら製鉄は木炭による還元で、鍛造は不純物をはじきだし、結晶をととのえて剛性をたかめる技術。大陸からつたわった古墳時代の刀はばかでかいナタのようだったり、細いと七支刀みたいにポキポキ折れて、実用にはむかなかった。鉄の種類がちがうのだ。


 幹線道路はここしかないので、渋滞は日常。むかしカーラジオから、「海が割れるのよ・・・」ときこえてきたときはおかしかったが、新田伝説の海中道路のようなものは、明治の人もかんがえた。汽車道といって、品川や横浜では海の上を埋め立てて線路を渡した。現在ではほとんどが陸地化されてしまったけれど。

 ここは湘南道路として1975年くらいまで有料区間だったという。このため、むかしの随筆なんかでは「高速道路」とかかれているのもある。環境保護と渋滞緩和を両立させようと、さまざまな対策がぎろんされるが、観光にも影響するだろうし、国の基幹産業でもある自動車を放逐するのは、容易ではない。


 このへんまで歩いてくると、たいてい日はおちてしまう。冬には腰越満福寺の石段がLEDでライトアップされているが、それいがいの季節にはたぶん、拝観時間にはまにあわない。

 ウインドサーフィンの帆も、とうに姿を消している。仲間から取り残され、いまだ波のうえをどこまでもただよっている、ひとの姿を想像してみる。いぜん稲村ガ崎駅で保護された記憶喪失の女性、「鎌倉花子」さんは、いったいどうしているだろう。公園の沖でおこなわれる伝説のサーフィン大会INAMURA CLASSIC SURFINGについては、みたことがないので、どのあたりまで高波が来るのか、知らない。


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