トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第144号 


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もちださんの鎌倉リポート No.144(2015年6月25日)



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文字について・1


 鶴岡文庫の表札は篆刻ふうの字体でちょっと読めないひともいるかもしれない。篆刻とは書画の落款なんかにもちいる、古代中国ふうの気取った印章(ハンコ)のこと。鶴、という字は一般の漢和辞典には出てこない、いわゆる異体字になっている。

 ここは無料のちいさな私設図書館だが、いごこちのいいソファもあり、中世末の八幡宮の境内模型なども展示されていて、見学だけでもたのしめる。ただこの表札はそんなやじうまを遠ざけるための工夫なのかもしれない。閑かでおちついたふんいきを文字が象っている。


 力餅屋は名物の「赤福みたいなあんころもち」を江戸時代から売る店。近所の川端康成さんが財布ももたずにきた、なんていう逸話ももつ。古いものではないのだろうが、ぶっとい文字ののれんはたしかに江戸っぽい。「大どほりより細き小道へ入る角に力餅と名付けしをひさぐ家あり」(扇雀亭鎌倉日記1809)。

 王朝時代には和紙の芯がある硬い筆がこのまれて、筆ペンみたいな細くしなやかな文字がうまれた(秋萩帖など)。鎌倉時代には宋風の影響もあって腰のやわらかな筆の、強弱のメリハリがはっきりした線がもてはやされる(熊野懐紙など)。江戸の字は庶民の野太い線。もちろん御家流の上品な書もあれば勘亭流のような図案化された文字もあるけれど、字のうつくしさというのは、みための立派さだけではないようだ。


 これは覚園寺裏山にある「法王屈」の刻名。ここはただのやぐらなのだが、いちばん高いところにあるため、近世には行場、座禅窟などとして再利用されていた時期があったのだろう。「風土記稿」など名所記の挿絵にもみえ、いわばこれが表札だったわけ。鎌倉の岩には、「つぶて石」とか、銘文を彫りつけたものがいくつもあったそうだ。記憶がうすいのでどことは言えないけれど、そういう行場の痕跡は、さがせばまだ、いくつかみつかるはず。

 風化した銘文は、ひかりの当り具合でよくみえないときもある。近代の碑ならペンキや白墨を充填したりするのだろうけれど、古いものはそうもいかない。中国の古碑なんかは、拓本をとる風習があるので石灰で傷をうめたり文字をシャープにしたりするそうだ。韓国のように「解読」と称してあらたに彫りなおして国宝をうたうようなのは、ちょっと論外。



横浜・師岡熊野神社
 七夕は文字の上達をいのる祭でもあって、乞巧奠(きこうでん)という古いしきたりが京都の冷泉家にのこっている。もっとも定家様というのはかなりのクセ字。いまでいう丸文字のよう。だが行儀ばった書道展などにおもしろいものはない。きどって書くより日用の文字のほうがずっとおもしろいのだ。

 真珠の小箱、のへたうま文字で有名になった榊莫山さんの著書なんかでも、「野口英世の母の手紙」とか、しろうと字をたかく評価している。莫山先生自身、素の文字はぜんぜんちがうし、たまには楷書も書くし平安女流文字みたいのも書く。ただそんなのは作品にしないだけ。


 むかし宮中にかかげられた門額の文字を、「すもうとりのようだ」とばかにした者が神罰をうけて死んだ、なんて話が本朝能書伝にのっている。おふだとか位牌などは文字が神仏を意味しているが、これは文字通り、「位(神格)を書いた札(カード)」だった。「前の中納言、水戸光圀公」に平伏するのとおなじ。李氏朝鮮では、宗主国清の国使がもってきた皇帝の名のついた「位牌」に王や諸酋が土下座叩頭(こうとう)して敬った。

 宋などのお経では皇帝のなまえ(諱=忌み名)と同じ文字を怖れて書き換えるため、お経の価値が損なわれたりした。文字にはそれだけの霊力がしんじられ、庶民がもてあそぶものではなかった。

 各地に立つ石碑のなかには、篆書隷書のきどったものもあれば、草仮名の連緬体、旧字体のものもある。ただ、中世庶民の文字はほぼカタカナ。阿弖川荘上村百姓等申状などがよく知られているが、方丈記も片仮名、世阿弥も自筆のカタカナ台本をのこしている。


 文字はオリエントでうまれ、象形文字の頭文字を、表音文字としてももちいた。ややおくれて中国大陸でもおなじシステムで再構成された。日本の仮名は漢字そのものなので、草書などに数文字程度、ひらかな、カタカナに酷似した例はざらにある。ときおりマスコミが「中国で仮名のルーツ発見」などと珍しそうに騒ぐのは「遼東の豕(いのこ)」のようなもの。

 中世には短命ながら契丹、西夏、パスパ、ハングルなどのもじが発明されたが、これらも漢字や梵字など、既存の文字システムの影響をつよくうけたもののようである。そのころの日本ではすでに下々までがカナ文字を書いており、東アジアの中華秩序に衝撃をあたえていた。本家の中国では支配民族が交代するなどして漢文がいっそう難解となり、白話体(口語文)にはかえって、難しい漢字があてられてきた。そのため文盲もおおく、近代にいたるまで「商人文字(記号)」とか「女文字」なんかが併用されていたようだ。


 杉本寺の本堂をでて、そとから改めてみあげると、庇の間の天井におおくの千社札が貼られているのに気づく。あらたに貼るのは禁止だけれど、味のある古いものは大切に保存しておくようだ。

 平安時代の歴史書「大鏡」は毒舌文学で、ライバル派閥の人物評は容赦ないが、あるひとが寺の戸に書き付けた詩を「見苦しい、消せ」と物笑いにするくだりがある。平等院の壁画なんかは江戸時代の落書きでかなりむざんな状況だ。現在ではどんなものでも「落書き」。ありふれた街頭アートはばかにされて当然だし、桜木町にのこしていったキース・へリングの絵(本人)でさえも、同様の末路をたどったという話を、きいたことがある。


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