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もちださんの鎌倉リポート No.145(2015年6月26日)



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文字について・2


 ちょっと古い朱印帳。いまのとはだいぶ書体がちがっている。書いたひともちがうのだろうし、英勝寺(写真5)のなんかはあの痩せた尼さんに書いていただいたそうだ。

 朱印はもともと納経のしるしに押されたものらしい。いまでは志納ですむが、これは御ふだ、印仏や題目本尊などの頒布と習合しているからだろう。西洋のサンチャゴ巡礼でも、パスポートのようなものにスタンプをあつめるが、それとはやはり、有り難味がちがう。手書きならではの味わいは、かえがたいもの。


 なまの文字には人間的なおもしろみもある。書くのは和尚のばあいもあり、ご家族、専門のひとを頼んでいることもおおい。なかには忙しいとか、じっさい墨汁をきらしているところもあって、ことわられるばあいもあるようだが、それもまたその寺の持ち味。よい墨をちゃんと手で摺って書くかた、ドライヤーでていねいにかわかしてくれる人、へんな法問をふっかけてくる者、いろいろだ。

 手本をなぞったような「うまい字」よりも、自己流のほうがずっといい。こいつは飲んべえ、という坊主もあれば、わたしたちより先になくなってしまう方もいる。なかには家族を殺してしまったり、盗みでお縄になった僧もあり、文字はそんなさまざまな記憶の、かたみでもある。


 草書といっても初心者にはむずかしいと思うので、いちおう「解読」しておくと宝戒寺のは「子育経読地蔵尊」、田代観音(安養院)のは「千手大悲殿」。経読地蔵というのは本尊が夜ごと経を読み、ときには産婆さんの世話までしてくれた、というこの寺の伝説にもとづく。「大慈大悲」は観音の別名。

 常栄寺(写真1)のは「これやこの法難の祖師にはぎのもち ささげしあまがすみにしところ」。へんな仮名は変体がな、といって字母の「能」「乃」「爾」「可」「露」をくずしたもの。いわば万葉仮名にちかく、ヤンキーが「夜露死苦」なんて書くのとじつはまったくおなじ。

 仮名のルーツは草書そのもの。漢文をかくときに、同じ文字のくり返しや文脈でわかるところなどは、大胆に崩したり省画したりした。そうした手本から、日本人がもっとも単純なくずし字を丹念にひろいあつめて集成したものが、現在のかな。「変体がな」は候補としてのこり、明治以降に落選した仮名で、古文書学ではさいしょにならう。


 ひらがな程度なら、ぺらぺらの字引で十分。いぜんCSの「京都ちゃんねる」で、「都をどり」の「を」の字を読めると自慢していたおばかタレントがいたけれども、蕎麦屋ののれんなんかに「幾楚者(きそば)」なんてかいてあるのくらいは、よめたほうが鼻が高い。

 扇ヶ谷などの「か」は「箇」の省画カナ。ほかにも「菩薩」を「サ」のように書いたり、「博士」を「†」などと省略するのは、仮名というより記号にちかい。書聖・空海(774-835)は「五筆和尚」としてさまざまな書法に堪能だったとされ、じっさい各種の墨蹟をのこしてもいるから、大陸由来の手本を無数に研究し、そこから抽出して「仮名を発明した」というのも、あながちうそではないのかもしれない。日用の例では藤原道長自筆の「御堂関白記」がしられている。


 巡礼札所はまず空海にちなむ四国抖藪(とそう)が現在のお遍路八十八箇所となり、ついで摂関政治の圧迫によって落飾した花山法皇(968-1008)が「西国観音三十三霊場」を遍歴したのがはじめ、とされる。中世には廻国六十六部といって、全国六十六州にさだめられた寺社に大乗経(法華経)を奉納して回る壮大な修行もはやった。

 江戸時代には全国各地に地域霊場・ミニ霊場が選定され、廃仏毀釈をへて明治にも復興・再編のブームをむかえた。近年、生涯学習や健康ウォーキングなどでふたたび光をあてられた巡礼道も、すくなくない。西御門来迎寺だったか、まだむかしの建物だったころ、「鎌倉観音三十三箇所」「地蔵二十四箇所」をわら半紙に刷った地図が遠慮がちに置いてあった。原稿は昭和初年にかかれたものだという。


 観光寺院になるまえには、和文タイプライターでつくった手製の由来書なんかもよくみかけた。むかしはゲラなんかに目を通している者がえらくみえたらしいが、いまやプリンターで簡単に印刷できるから、活字をありがたがる時代ではなくなった。

 中世以来、大部の印刷には手彫りの木版がもちいられた。きりしたん版のながれをくむ木活字本などは筆の流れが不自然で不細工なものも多い。活版活字は少部数印刷に適したもので、むかしの新聞などでは直接印字せず、パルプに転写して複数の二次的な金属原版をつくる技術がくふうされた。

 また銅版画のながれをくむ写真製版は、版下を実物大のフィルムにとって金属版に焼き付けてゆく方式。謄写版(ガリ版)はパラフィン紙をひっかいて手書きの版をつくる簡易なスクリーン印刷で、これもコピー機と合体して原稿をとりこみ、手書きせずにすむ技術にとってかわられた。


 手馴れた一見じょうずな文字も、安手の掛け軸のような印刷めいた感じがしては、案外おもしろくない。無心ににじみでてくるような「何か」があって、文字ははじめていのちをもつのだと思う。文字を美術と見る傾向はねづよいが、なにを書いたか、達筆すぎてよめないというんじゃ、もったいない。

 空海・嵯峨天皇・橘逸勢、また小野道風・藤原佐理・藤原行成らを三筆三蹟という。行成のすえを世尊寺流・持明院流などといい、法性寺関白藤原忠通の法性寺流、尊円法親王の御家流(青蓮院流)などとともに中世の規範となった。また禅寺の高僧がのこした墨蹟は「禅宗様」という独自の流儀を生んだ。これは「風入れ」なんかでいくつかよいものが見られるとおもう。残念ながらカラーコピーでごまかしているものもあるようだが、見破るにはふだんから生の字を見ておくこと。幕末あたりの墨蹟なら、そんなに高くないものもある。


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