トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第146号 


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もちださんの鎌倉リポート No.146(2015年7月3日)



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モダニズム建築


 先年ブームになった辰野金吾の東京駅は、アムステルダム駅をモデルにしたともいえば、ヴィクトリア様式を模したと評するひともいる。明治初期の「えせ洋式」は大正時代に至って、ようやく本格的なものとなった。

 やがて日本の独自性ということが模索され、上野の国立博物館のように和風の屋根をかぶせた帝冠洋式のビルディングが提案されるが、これは「いかもの」への退化でしかなかった。日本の建築を最先端にむすびつけたのは、むしろ古典だった。その契機は戦前に来日滞在したブルーノ・タウトによる日本再発見、ことに桂離宮への評価だった。


 八幡宮の源平池にうかぶ県立近代美術館(坂倉準三)は金閣寺のようでもあり、平等院のようでもある。重要なのは空と水と緑であり、平たくまっしろな箱のような建物が寝殿建築に置き換えられている。新館別棟は釣殿みたいだし、ピロティ様式のゆかは厳島神社のように、水にはりだす。 

 おなじ近代建築でも、F.L.ライト設計の旧・帝国ホテルのような、新奇で精緻な装飾はない。いたって単純で簡素なかんじがかえって和室の障子のような、すがすがしさを感じさせる。

 残念ながら池畔をめぐる見学路がなく、お稲荷さんがある土手は外側を堀がへだてているし、一部は店舗によって封鎖されてしまっている。段葛の、生き残った桜を植える計画もあるというので、遊歩道ができるといいかもしれない。


 モダニズムといえば駒沢オリンピック公園などにも、坂倉の弟子なんかがたてた、おもしろい建物が多い。丹下健三さんなどが活躍した60年代は、ある種ベル‐エポックだったようだ。近所の児童公園にあったすべり台のようなものが、じつは現代彫刻(EMニールセン「かたつむり」)だったり。ともだちと自転車で元首相・福田赳夫さんの古いいえのまえを通り、駒沢公園のプールにたどりつくと、入り口が巻貝のようなスロープになっていたり。

 サンシャインとか、恵比寿のガーデンプレイスとか、私などが育った70年代以降になると、なんとなく保守化して、未来感というのか、あたらしいものを生み出してゆく面白味は減退していたようにかんじる。パビリオンと実用建築はちがうのだ、としても。



広尾
 モダニズムの無機質なかんじを批判して、ひところポスト‐モダニズムなんていう、あそび心満載の、いわゆる「おばか」建築がはやった。その奇抜な発想はともかくとして、ゴテゴテしすぎて異常にカネがかかるわ、でこぼこで維持管理費もばかにならないわ、早々に取り壊されたものも多いらしい。

 江戸東京博物館は巨大な構築物をむりやり空中にもちあげているけれど、がんばったわりには、ピロティ(げた)ぶぶんはあまり役に立ってない。うえに上がるエレベーターを捜すのが面倒なだけ。上野の法隆寺宝物館なんかは平成建築ながらガラスとコンクリによるまっ平らな壁が屹立、ごく浅い装飾的な池なんかもあしらって、モダニズムの過去の名作、そのまんま。

 けっきょく経済性・実用性に押し切られ、中途半端なものばかりが普及。おおきな黒い立方体のようなハリボテで料亭の外観全体をすっぽりおおってしまったり、屋上庭園をふやしただけのただのビルだったり。これからの建築はなにをめざそうというのだろう。



北野天神絵巻乙巻
 中世の家屋は都市全体にたいし、交換可能な部品(モジュール)としてあつかわれ、簡素なパネル工法でたてられるものがおおかった。土地は庶民のものではなく、お上から借りているものだったからだ。韓国では代々このようなスラム街やビニール屋台がおおいが、必要に応じて、たてかえや撤去が容易になる。

 鎌倉の町屋は大火によってなんども、執拗に灰燼に帰した。しまいには一面の畑や山林に化した時期もある。ふるい地割を規定するのは土地の境界で、日本人は地籍図がしめすこの筆の線だけは、律儀にまもりつづけてきたようだ。

 土地が庶民のものとして定着すれば、もはや容易にとりこわすことはできなくなる。街も歳をとれば代謝がおちる。都市全体として機能的であるか、調和しているか、そんなことは二義的なものでしかない。雑然とした「ハモニカ横丁」が好きな人、迷路のような路地、おしゃれな隠れ家スポットを推す人・・・いろんな趣味と権利意識が渾然となって、街の歴史はつくられる。


 たてものが土地に馴染むかは、歴史の要素もおおきいようだ。奇抜だからだめだとか、赤い色の看板が派手だとかいうのなら、赤橋もフェラーリもだめかもしれない。かつて「やぐら」は漆喰で真っ白に塗られ、金泥なんかで飾られた。

 景観重要建物にしていされた大正時代の洋館の多くは非公開。プレートはでているけど、ご迷惑だろうから生垣からそっと垣間見る程度のほうがいい。このての住宅は観光地以外にもいくらか残っているが、壊されるものもすくなくない。

 むかしの山の手言葉はいわゆる「ざあます」弁でいまはほとんど死語だが、川端邸で作家の三島由紀夫さんが話しているビデオがのこっている。相模弁、ないし横浜弁というのは「紙兎ロペ」のあきら先輩のような感じで、ところどころふざけて「だべ?」をはさむ。これは東国弁のなごりなのか、神奈川ではおもしろがって使っている。一方の「じゃん」は静岡由来らしい。ただ、住民の流動はすすんでいる。万葉集では「こころ」を「けけれ」なんていっているし、鎌倉時代、公暁というひとは「親の敵はかう討つ(ん)だ」なんていっている。


 コルビュジエは装飾を排した、倉庫や工場のような「初源的な形」のうつくしさから発想をひろげていった。「家は住むための機械」などといい、船や飛行機、自動車のように無駄を極限までそぎおとして機能に特化すべきだとした。既製の安い材料で大量生産せよ、室内に余計なものを置くな、床下や屋上庭園を利用すべし、都市計画によって街全体を作りなおせ・・・などとというのも、100年前からのアイディアだ。

 ただ、ニュータウンなどのような自由な都市計画は既存の町ではむずかしい。由比ヶ浜ショッピングセンターの計画は撤回されたようだけれど、不便でちぐはぐな古い町並みが気に入らないひとも、少なくないのかもしれない。

 東京にすんでいたころは碑文谷のダイエーとか、大きなショッピングセンターは数えるほどもなくて、ローカルなスーパーがほとんど。海老名に大規模商業施設「ららぽーと」ができるそうだけれど、交通や日々の買い物なんかは新興住宅街のほうがずっとめぐまれている。気に入らなければ他の町にひっこすほうが早い。「思い通りにならない」なんてことは、きっとどこにでもあることなのだ。


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