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もちださんの鎌倉リポート No.149(2015年7月14日)



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鎌倉七名歌・2


 鎌倉に来た歌人といえば、西行や鴨長明などが名高いが、定期的に滞在したものにも飛鳥井雅経(1170-1221)や冷泉為相(1263-1328)らがいる。

 飛鳥井家は関白師実の支流で、「平家物語」に鼻豊後と書かれた祖父や父が受領だったさい、義経の平家攻めに協力。行きがかり上、義経支援勢力となってしまい、雅経は弁明のため頼朝のもとにくだった。宿所は泉ヶ谷とつたえる。飛鳥井家には和歌のほか、伝説的な「蹴鞠」の名人・成通卿直伝の芸もあって、頼朝をかんげきさせた。また定家らとともに「新古今」の選者にもなっており、実朝将軍に定家を紹介したのも彼だった。



実朝墓におちていたガラス片
 「春のみやま路」などの日記をのこした孫の雅有(1241-1301)も、京鎌倉を往復した。朝廷と関東と、どちらの味方なのだ、という声もあったらしく、作品の舞台はおもに都や旅路にかぎられており、鎌倉についての詳細な記述はのこされていない。これは当時の貴族一般の傾向であって、後深草院二条の「とはずがたり」にみえる鎌倉の記事なんかは、廃棄処分をまぬかれた特異なそんざいなのだ。

○ ある人の夢に「政村の朝臣、この題にて人々を勧めて歌を詠ませて心経を供養せよ」と見侍べる、とて時村進め侍しに「不遇恋」・・・(飛鳥井雅有「隣女和歌集」)

 これは文永九年1272からの歌をあつめた巻にみえる。和歌好きの前執権・北条政村は翌年69歳で世を去った。夢のお告げを知った息子・時村が亡き父への供養として、歌人たちに歌を依頼したようだ。題はなぜか、すべて「恋」にかんするもの。政村が、霊になってまで詠ませたかった「恋」とは、なんだったのだろう。


 曽我兄弟の遺品に「伊勢物語」があったり、関東でも都文化は広く浸透していたとみられる。「源氏物語」の校訂は古来、藤原定家の青表紙本がゆうめいだが、これに次ぐ河内本1255は鎌倉で四代将軍頼経が、河内守源光行・親行親子に依頼してつくらせたもの。平家与党から帰参、幕閣に転身した文人で、親行は大仏の記述でしられる「東関紀行」などの作者に擬せられたこともある。

 また中世を風靡した「万葉集」の校訂本も、親行らの作業をひきついだ仙覚という者が、竹御所(将軍室・実朝養女)の持仏堂のあった妙本寺などで校訂をはじめた、とされる。万葉集は万葉仮名のほかに訓読のない漢文や当て字(判じ物)をふくむので、なかには判読困難なものがある。のち大阪の僧・契沖や真淵らに批判されるのだが、当時としての功績はたかく評価されるべきで、そもそも仙覚以前の完本はまったくのこっていない。宗尊将軍の父・後嵯峨院もこう称えている1253。

和歌の浦 藻に埋づもれて知らざりし 玉も残らず磨かれにけり


 冷泉為相には私家集「藤谷集」をはじめ、「柳風和歌抄」など鎌倉であつめた和歌集ものこっている。ただ内容は題詠や屏風歌などが多く、詞書きなどから鎌倉の風物がいきいきと活写されるような部分は、いたってすくない。「夫木抄」は弟子の武士が編んだものといい、こちらはかなり大部の類題名歌選。この当時は写生よりも古歌を参考に、じっくり時間をかけて推敲するのがよいとされており、東国ではとくに、題詠の教育に力を入れていたようだ。

  正和五年九月、仏国禅師、鎌倉より下野那 
  須へ下り侍りける時、「春は必ず下りて山の
  花を見るべき」と契りけるに、十月入滅し侍 
  りければ、仏応禅師のもとに遣はしける
咲く花の春を契りしはかなさよ 風の木の葉の留まらぬ世に
  平貞時朝臣みまかりて後、四十九日過ぎて
  その跡にいひ遣はしける
跡慕ふ形見の日数それだにも 昨日の夢にまた移りぬる
                       (「藤谷集」)

 仏国とは高峰顕日(夢窓らの師1241-1316)、仏応(太平妙準)は那須出身の高弟。高峰は宗尊将軍や後深草院の庶兄にあたる。為相はほかに、夢窓疎石とも交流があった。

  二階堂出羽守道薀邸にて中納言為相卿、暁月房など
  参会、法談の後、人々歌詠みけるに「迷情ノ中ニモ仮
  ニ生滅有リ」と云ふ題にて
出づるとも入るとも月を思はねば 心に懸る山の端もなし
                   (「夢窓国師御詠草」)


             式部卿のみこ(将軍久明親王)
磯山の霞の下に里みえて 波は晴れたる浦の朝凪
                   平(大仏)宣時朝臣
我のみと心尽くさじ山桜 花も咲くべき頃は侍らむ
  最明寺の花の盛りに、人々歌詠み侍りけるつゐ
  でに                (北条)貞時朝臣
吹く風の治まれる世を山桜 知らせ顔にも散らぬ花かな

  愁ふることありて、東に下り侍りける秋、月をみ
  て詠み侍りける                為実朝臣
仕へつつ人より近く馴れし身を 思ひ出だすや雲の上の月
                     権中納言為兼卿
いかなりし人の情か思ひ出づる 来し方語れ秋の夜の月
                     (「柳風和歌抄」)


 定家の嫡流は為相の甥で、飛鳥井家の外孫でもある二条為世(1250-1338)がついだが、その弟・為実(1266-1333)は母がちがった。やはり為相の甥にあたる京極為兼(1254-1332)は宗家の為世と烈しく対立。幕府に陳情して持明院統を推すなど、政治的にも争った。京極家の歌風は革新的とされ、旧守的な為相とは対照的であったが、分家・冷泉家をおこした立場上、為相もかれらには同情的だった。

 京極為兼は一時期、勅撰集「玉葉和歌集」をえらぶなど、政治的にも歌道の面でも成功をおさめる1312。だが、やがて幕府とも険悪となって、二度目の失脚をへて客死する。



神武寺
 さて、実朝が「金葉集」をのこした独創的な名歌人だったことはよくしられているが、父・頼朝にも勅撰集に載った歌がいくつかある。

道すがら富士の煙もわかざりき 晴るる間もなき空の気色に
みちのくの言はで忍ぶはえぞ知らぬ 書き尽くしてよ壷の碑文

 二番目のは慈円和尚にあてて詠んだもので、岩手の森とか忍夫の里、蝦夷といった地名をたくみに掛詞にするなど、当意即妙の才に和尚も感嘆している。かりに代作するブレーンがいたとしても、その当時1195、これだけの歌が詠めるものがすでに身近にあったのだ。


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