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もちださんの鎌倉リポート No.15(2007年12月22日)



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北条高時の時代・3



百八やぐら60号穴(団子付地蔵窟)。奥室中央像の胴体部分は中世の地蔵像。
 天園ハイキングコースを覚園寺のほうに降りかかってすぐにみえるやぐらを「団子窟」といっている。名の由来はよくわからないが、このあたりのやぐらの中をのぞくと、首のない小石像が無数に並んでいる。・・・まさに高時(享年31)らの集団自決をほうふつとさせるが、ほとんどの石像は古いものではない。かつて覚園寺につくられた四国88箇所ミニ霊場の「残骸」を移したもので、ほんらい弘法大師の像だった。「大師みち」というみちしるべが、筋替橋の干物屋のまえにのこっている。

 ただ、やぐら自体はふるいもので、奥室をもち、中央の大穴の中に戦死者とおぼしきたくさんの遺骨をほうむった無縁墓の形式がみてとれる。石蓋をかぶせ、おそらく死者の霊があこがれ出ないように地蔵をのせて封印したものなのだろう。この窟は足利尊氏が再興した覚園寺にもちかく、納められた骨が元弘合戦のころのひとびとと考えても、あながち不自然ではない。

 高時伝説をのこすやぐらは鎌倉の各所にあるが、保存状態はいまいちで近代になって破壊されたものも多い。腹切やぐら(葛西谷)の石造宝塔は粉々にされ、普川国師入定窟(釈迦堂谷)は宅地になった。首やぐらも荒れ果てるがままになっている。戦前、高時は国賊だ、などという否定論が風靡したこともあったらしい。高度成長時代には、カネのほうがたいせつだった。きまぐれな世情にほんろうされ、歴史はつねに忘れ去られようとしている。

 だが、南北朝時代の皇国主義者としてしられる北畠親房による北条幕府論はきわめて好意的である。「おおかた泰時、心正しく、政事素直にして人をはぐくみ物に奢らず・・・天の下すなはち鎮まりき」「(北条一族は)滅びしまでも、遂に高官に昇らず、上下の礼節を濫らず」。


ほんらいの首を失った団子地蔵は微笑みをたたえ、意外にかわいらしい表情をしている。



頼朝の墓。約25年前と10年前。観光客による破壊を受け、新しいものにかえられている。りっぱになった、というひともいるが・・・。
 後鳥羽上皇の、いわゆる承久の乱(1221)についても、北畠は完全否定している。保元の乱以降、奸臣がでて人民は塗炭の苦しみを味わった。頼朝はこれを平定した恩人である。「これに優るほどの徳政無くして、いかでか容易く覆へさるべき(どうして簡単に転覆などできましょうか)」「上天、よも与(くみ)し給はず」。つまり武士が天皇上皇をまとめて流罪に処す、という未曾有の事態すら、北畠は天命のいたすところとして肯定している。『神皇正統記』などといかめしい名が付いていても、単純に天皇絶対思想の書だなどというのは戦後の偏見がつくりあげた思い過ごしにすぎない。頼朝をほめ、天命という超越的な存在を根拠に天皇の行動を冷徹に批判しているのだ。宋学の「革命論」が、その根底にあるらしい。

 ここで北畠は、建武の新政よりも北条時代の方がよかった、と遠回しにいっているに違いない。後鳥羽とおなじように、後醍醐にも「徳」のある政治はできなかった、だから、失敗したのだ、と。足利尊氏と戦い、南朝の天子を傅(めのと)するものとして、のちの戒めにこれだけは言っておきたかったのだろう。

 八幡宮東門をでて北側の学校付近をかつて「鶏合せ原」といい、高時があそんだ闘犬場があったところという。勃発する戦乱の中、かれは必死で平和をアピールしつづけた。闘犬を好み踊っているから高時はうつけ(亡気)、祇王を泣かせたから清盛は暴君、などというのは物語のうえでの話。冷静に考えれば、たかだかこの程度の理由で、武士が武士政権というたいせつな概念を本気でほろぼそうなどと思うだろうか。

 元朝末期の中国では、弥勒如来を降臨させるために現世社会をずたずたに滅ぼしてしまおうという民衆運動が起こった。ハルマゲドン〈最終戦争〉をおこせば、天が哀れんで救世主を遣わすに違いない、と。もちろん弥勒如来など来なかった。これをきっかけに貧僧出身の活動家が明を建国したが、むしろ中国は圧制のもとにおとろえてゆく。庶民はババをひいたのだ。


一族子孫のかたがたによる追善供養は絶えることがない。春秋の彼岸に供養される塔婆にはいつもあのかたのお名前がある。腹切やぐら。



駅から見た天狗堂山。高時はこのあたりまで敵がきたのをみて最期を悟った。
 粛清とか権力闘争とかは、けしてナショナリズムから起こるものではない。仮にそうなら、武士たちは高時を攻めるよりも元や高麗に対し、国や体制を徹底して防御しようとしただろう。海外から執拗な侵略を受けているこんなときに、国家を忘却し乱世の幕をあけたわたしたちの先祖は、いったい何を思っていたのだろうか。

 よりおおきなツヅラがどうしても欲しくなり雀の舌を切ってしまったひとがいる。中身を知らない「新政」や「革命」などに、やみくもな期待をふくらませる群集心理というのは、それと同じだ。いっさいの異論を封じ、世直しという「ふれこみ」とはまったく正反対の結末に庶民が熱狂して突進した昭和の勘違い革命、あの国民的社会主義運動(Nationalsozialismusナチズム)も、そうだったろう。ひとびとはただ、根拠のない万能感にみたされていたに、違いない。

 東勝寺の自決から初七日の日付を刻んだ五輪塔のかけらが1965年、造成で破壊中の釈迦堂谷奥やぐら群からみつかった。それ以前にも、宝戒寺(東勝寺の後身)にいいつたえがあり、ここのやぐらに彫られた龕中の深い穴から刀傷のある無数の骨がすでに確認されていたという。東勝寺からはかなり離れた場所であるが、高時を守るため裏山のかなり広い範囲で戦死し、あるいは自らむくろになった人々がいたらしい。後年、宝戒寺二世・普川国師というひとがわざわざそこに入定したとかの伝説もあるという。

 江戸時代には北条氏の「首やぐら」が牛蒡谷にあるとされ、貝吹き地蔵の伝説ができた。戦死者をほうむった宝戒寺には大正時代まで裏山に高時をまつる得宗権現という祠もあったという(近年、本堂脇に徳祟権現として再興)。高時の首はどこにいったのだろうか。江戸中期には円覚寺仏日庵に光堂(日光殿)という高時の廟がまだのこっていて、のちにその跡地・続燈庵の方丈の下から高時の遺骸を納めたとみられる広い石郭がみつかっている。高時の法名・日輪寺殿、というのはこれらしい。もとの廟堂は老朽化のためこわされ、位牌や遺骨、高時像などはすでに時宗廟になっていた弥勒堂(慈氏殿)にまとめられ、今にいたるという。



衣張山。東勝寺の裏山からこの山にかけての尾根道(現在廃道)にかつて元弘戦没者を納めたやぐらがあった。

次回は「喫茶養生記」ほか。


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