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もちださんの鎌倉リポート No.150(2015年7月16日)



No.149
No.151



鎌倉七名歌・3


 「新勅撰和歌集」(1232下命1235奏上)は、承久の乱ののち、晩年の藤原定家が編んだ勅撰和歌集。絢爛豪華な新古今にくらべ、技巧的な歌が排除されているほか、貫之や相模といった歌仙にならんで、九条良経、西園寺公経、源実朝といった政治的な人選がなされていることでも知られる。全体をおおう平凡地味な歌風は定家の好みの変化を示すのか、人選に調和させたのかは、不明。

 (春上)                  鎌倉右大臣
深冬尽き春し来ぬれば青柳の 葛城山に霞棚引く
 (春下)                  鎌倉右大臣
桜花散らば惜しけん玉鉾の 道行きぶりに折りて挿頭(かざ)さん


 鎌倉武士の歌についていえば、華やかな四季の部立に出ているのは実朝の歌ばかりだが、奥にすすむと執権北条泰時兄弟の歌もみえている。

 (神祇) 駿河国に神拝し侍けるに富士の宮に詠みて
  奉りける                      平泰時
ちはやぶる神代の月の冴えぬれば 御手洗川も濁らざりけり
 (恋一) 題知らず                 平重時
焦がれゆく思ひを消たぬ涙川 いかなる波の袖濡らすらむ
                         鎌倉右大臣
我が恋は逢はでふる野の小笹原 幾夜までとか霜の置くらん
 (雑一) 花を見て詠み侍りける         平重時
年毎に見つつふる木の桜花 我が世の後は誰か惜しまん


  題知らず                 鎌倉右大臣
浅茅原主なき宿の庭の面に あはれ幾夜の月か澄みけん
 (雑二) 寿永二年大方の世静かならず侍りし頃、詠み
  置きて侍りける歌を定家がもとに遣はすとて、包み紙
  に書き付けて侍りし               平行盛
流れての名だにも止まれ行く水の 哀れはかなき身は消えぬとも
 (雑三) 父身罷りての後、月あかく侍りける夜、蓮生法
  師がもとに遣はしける               平泰時
山の端に隠れし人は見えもせで 入りにし月は巡り来にけり
 (雑四) 題知らず                  平政村
宮城野の木の下深き夕露も 涙に増さる秋や無からん

 亡き実朝にくらべれば格段にすくない三首以下ながら、じぶんたちも入集し後世に名を残すべく、北条泰時は定家の子・為家宛てに礼状を送っているらしい。ただなにかと暗い歌が多いし、定家はさりげなく平家の歌なんかも、紛れ込ませている。壇ノ浦で死んだ行盛はおじ重盛の猶子だから、六代には義理の叔父にあたる。


 その後の勅撰集は「続後撰」為家撰1251、「続古今」為家・為氏ほか1265、「続拾遺」為氏1278、「新後撰」二条為世1303、「玉葉集」京極為兼1312、「続千載」為世1320、「続後拾遺」二条為藤・為定1326、「風雅」光厳院1346、「新千載」二条為定1359、「新拾遺」二条為明1364、「新後拾遺」二条為遠・為重1384、「新続古今」飛鳥井雅世1439・・・とつづく。

 勅撰集は定家の嫡流・二条家の独撰、という傾向がたかまっていた。同じ美学をくりかえしても、あたらしいものは生れない。前項でもふれたように、京極為兼は二条為世の執拗な妨害をのりこえて「玉葉集」を編み、政治対立にも波及した結果、北朝が時代にも一時京極派がもりかえして「風雅集」をうんだ。現在ではこの異端の二集の評価が高い。さて武士たちの歌はというと、あいかわらず選ばれつづけていた。

  題しらず             平政村(続拾遺)
来し方ぞ月日に添へて偲ばるる 又めぐり逢ふ昔ならねば
  題しらず             平泰時(新後撰)
思ふには深き山路も無きものを 心の外になに尋ぬらむ


 中世の歌には一定の傾向があり、当時はそれが「かっこいい」歌のかたちだったとしても、とても権力者が詠んだとはおもわれぬ枯淡な境地を追求したりしている。架空の主人公を設定したかのように詠まれるぶん、とかく空想的で、作者の実人生との交わりは薄かった。実際に追放将軍1266という悲劇にみまわれた宗尊親王のばあいには、こんなのが入集している。

  世をのがれて後、月前梅といふことを  (玉葉集)
梅が香は見し世の春の名残りにて 苔の袂に霞む月かげ
  文永九年(*1272)二月十七日、後嵯峨院かくれ給
  ひぬとききて、いそぎまゐる道にて思ひつづけ侍
  りける                      (風雅)
かなしさは我がまだ知らぬ別れにて 心も惑ふ東雲の道


 武家は和歌など詠まない、というのは「ストーリー」としてはおもしろいかもしれないが、まったく事実に反している。辞世の歌などはともかくとして、西行など武家出身の歌仙や歌学者もすくなくなかった。たとえば二条為氏の母は関東武士・宇都宮蓮生の娘。宇都宮氏はいちおう幕閣の一員でもあったが、若くして謀叛のうたがいをはらすために出家。京都にすんで定家と親しくなり、やがて娘を息子の嫁に、と乞われたようだ。

 前述の平行盛など、ほかにも定家が親しくした武家歌人は多かった。定家の父・藤原俊成が時代をはばかって忠度の歌を「詠み人しらず」にしたことは、能なんかでも有名なエピソードだが、行盛のケースでは勅撰集に「朝敵」の名を刻み込んでいる。あくまで政治的な意図はなかったのだろうが、歌に関するかぎり、定家には「推しも押されぬ」余徳があった。


○ 鎌倉の里にまかりて見るにあらぬ
  さまに荒れ果てし所々に、神の御
  社なども型ばかりなる中に、荏柄
  の宮に詣でて梅の咲きたるをみて
里旧りぬ何なかなかの梅が香は 春や昔も忘れぬる世に

 室町時代の歌人・源孝範というひとの家集にはこんなくだりがある。「主なしとて春を忘るな」、とうたった天神の歌や、「軒端の梅よ春を忘るな」とよんだ実朝の辞世を下敷きに、
なにもかも忘れられたいま、かえって梅だけが昔の人を忘れずさいている、そんな風情を描写した。荏柄の本殿(奥)はじつは鎌倉時代の古材をのこす唯一のたてもの、とされる。


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