トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第151号 


▲もちださんトップへ戻る

もちださんの鎌倉リポート No.151(2015年8月2日)



No.150
No.152



惣吉稲荷


 高座郡上鶴間(現・相模原市)、中和田にある惣吉稲荷は、桃山時代1591にこの地をさずかった古参の旗本・大岡吉重郎義成(吉十郎、義勝とも1557-1598)夫婦の墓がある。有名な大岡越前の大岡家とは、三河における遠い親類にあたるらしい。

 ここには古来、西光寺という寺があったらしく、惣吉という忠僕が墓守として仕えてきた。やがて墓と鎮守の稲荷だけがのこって、惣吉稲荷とよばれるようになった。


 ここには二枚一組の画像板碑(延文四年1359)がつたわっている。稲荷は境川の河岸段丘にたっていて、背後の坂をくだった川べりには、泉龍寺の三重塔が目をひく。これは享禄年間(1530ころ)に雪天透瑞という和尚がここをおとづれ、前述・西光寺を曹洞宗へ改宗させた、後身寺院とつたえている。

 じっさい泉龍寺にのこる本尊・釈迦三尊像胎内銘には「延文四年無量山西光寺に安置した」と書かれているらしく、記年は板碑銘とも一致している。寺号からみても阿弥陀三尊をきざむ板碑が西光廃寺にまつられていた可能性は高いといえよう。ただ西光寺に仏像を供養し、二枚の板碑によって逆修作善した一組の夫婦・・・南北朝時代のこの地の領主・・・の名は、あきらかでない。延文四年は北朝年号、前年四月に将軍足利尊氏が死んでいる。


 大岡義成夫婦の墓1644は近世の板碑型で鳥居に背を向け、境川方向を臨んで東向きにたっている。延文の板碑も碑面は阿弥陀仏だから、ほんらい同じように東向きにたっていたはずだ。じつはこの稲荷じたいも、峰筋をとおる鎌倉古道ぞいの宅地造成によって、昭和30年代に西向きにたてかえられたもの。もとは周辺神社とともに崖下の集落にむいていたらしい(現在は下側も再開発)。

 かつての風景を想像するならば、川の手の集落をみおろすようにたてられた鴨志田の板碑(レポ48)を想起させる。鴨志田にもかつては念仏堂があり、奥には時衆門徒の墓と伝えるものもあったという。墓守の惣吉というのも、あるいは義成の忠僕などではなく、もともとこの地でふるい無縁の墓地などをまもってきた、毛坊主のような人だったのかもしれない。



鴨志田の板碑(「緑区史 通史編」より)
 義成夫妻(法名直心・栄喜)の墓は、猶子となった嫡孫・作佐衛門義重という者が「亡父母」の追善にたてたもの。一説に、西光寺は明暦元年1655あるいは寛政年間、義成による創建ともされるが、義成はとっくに死んでいるし、前述の胎内銘からも明白に否定される。おそらく義重かその子孫が、泉龍寺五世住職にたのみ墓前の小堂として同名の寺を復興するなどしたことをさしたのではないかとおもわれる。

 二世義重は名も知れぬ古い領主夫妻の板碑を掘り捨てて、おなじ場所、おなじかたちに先代夫婦の墓塔をたて、みずからの権威を宣揚し、鶴間三百石の統治権を確立しようとした。だが墓守の惣吉は「祟りがある」などと説得し、ふるい板碑を境内のかたすみに大切に守り通した。うさんくさい新興領主などより、むかしよりこの地を見守ってきた板碑を信用してきたむらびとたちは、惣吉の行為に感心。その名をながくつたえた。・・・想像をたくましくすれば、そんな物語があったのかも、しれない。


 この大岡氏は幕末までこの地をまもり、やがて駿府に隠居した徳川慶喜を慕って静岡にうつった。詩人・大岡信さんの先祖・直時氏が、たしかそんな話だったような気がするが、しらべてみないと何ともいえない。

 鶴間という地名は町田駅裏(江戸期に一部武蔵国)から対岸の相模原市上鶴間、大和市下鶴間にいたるほそながい土地。川辺の開発は難しかったので、川岸地区がまとめられたのだろう。境川はちいさな川たが、古淵では龍がすむという伝説もあり、かつての暴れ川を連想させる蛇行の痕跡はところどころにのこっている。延文の板碑をたてた武士なども、開拓者のひとりとして、神話化された時期があったかもしれない。


おんあぼきゃべいろ
しゃのうまかぼだら
      己   逆  
延文四年   十月日
      亥   修
まにはんどまじんばら
はらばりたやうん

 板碑は注連縄をかけ、金網をはった南向きの祠におさめてある(写真下)。高感度で撮影した銘文をあらためて検討してみると、ともに「逆修」ときざんであるのに気づいた。これはよくある父母の菩提ではなくて、生前の夫婦がみずからのために造立したものらしい。「逆修」とは生前葬のようなもので、四十九日から十三回忌までは短縮して、半年程度のあいだたてつづけに法要や作善をおこなう。梵字は翻刻できないのでひらがなで示したが、罪障を破壊して往生を約束する光明真言を四行に刻んだもの。


 画面のレリーフや線刻などに赤っぽい色がにじむのはおそらく金泥の痕跡。発掘品の中には金色がのこるものもあるが、それは色褪せる前に埋められてしまった、戦国時代のきのどくな板碑におおいようだ。

 祠のなかには別に、「元徳元年十月日」1329をきざむ鎌倉末期の阿弥陀種子板碑がもたせかけてある。近隣からでたものを仮に納めたものなのだろうが、説明はない。南方の道正山横穴墓からも板碑が出土したと、看板にはでているが実物は行方不明。出土状況がわかれば、これらも文化財に登録されるはず。行政はたよりにならないので、郷土史家には追加情報を期待したい。


No.150
No.152