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もちださんの鎌倉リポート No.153(2015年8月10日)



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武相困民党の碑



相模原市
 小田急町田駅のうら、境川をわたってしばらくするとみえる、青柳寺鹿島神社。自由民権運動のひと駒、とされてきた武相困民党の300名が、ここに集結(1884)したことを示す碑がたっている。

 背景には文明開化と、重税をともなう松方デフレがあった。年貢が金納になってのデフレはつらい。近代的な資本経済にのりおくれた旧態依然の農民たちは、貸し金主である町田の銀行・金融会社などに、強訴におよぶはらづもりだった。やがて行動は周辺地域にも波及、鎌倉郡瀬谷村付近で警官隊と衝突し壊滅においやられるまで、参加者は大小150村にもおよんだという。


 折りしも明治十四年の政変1881で野に下ったものたちが、自由党を結成するなどして復権をはかり、政府の官物払い下げ事件などを糾弾する一方、「反政府」「民主主義」をはたじるしに困民指導者にくいこんでいた。

 国会開設の詔などで上部がうまく丸め込まれてしまうと、やがて困民たちのはしごははずされてしまう。資金源であった商家・豪農たちにしても、運動があまりに激発すればじぶんたちの利益までおかされてしまう。じっさい高利貸らが殺害される事例なども発生し、過激暴民を扇動した科で自由党は一時、解党をよぎなくされた。

 すなわち貧農たちは発火点として利用され、やがてじゃまものになったのだろう。これが困民党の評価をむずかしくしている。はたしてかれらは「自由民権運動」の抱き合わせ、同床異夢の捨て石だったのか。かれらの借金は解決されず、自由党にしても現代の左翼史観が蛇蝎のように忌み嫌う、いわゆる「保守政党」につきすすんだ。もちろん現代の歴史家を喜ばせる社会主義運動など当時、まだほとんど存在していなかったから、こうした評価は不当である。困民たちは二重のいみで裏切られてきたのだ。


 写真は、武蔵と相模のあいだをながれる境川。町田市役所の新庁舎から、小田急江ノ島線ののりかえくちとなっている相模大野方面をのぞむ。同駅ちかくの相模女子大ではまいとし薪能がおこなわれるが、ちょっと古いイチョウの並木が注意される。

 案の定、同大の敷地はかつての軍の施設だった。鎌倉郡瀬谷村では、ごく最近まで米軍の通信施設があった。川をすこしあがった矢部には補給廠がまだ残る。町田市野津田の民権資料館におさまっているのは、けっきょく豪農指導者の資料だけで、土地を失い離散した、貧しい困民たちがのこした文書なんてものはない。質入されたかれらの土地は、どうなっていったのだろう。
 
 近年では、川むこうの一部地域に近隣国のマフィアらがわがもの顔に私娼窟を展開し、問題視されたこともある。


 幕末の平和な農村をえがいたものに、渡辺崋山の「游相日記」がある。「鶴間に至る・・・俗にまんじう屋といふに宿す。・・・酒を命じよし、飯うまし。・・・此辺も又、桑柘多し。田圃の間に出れば雨降山蒼翠、手に取るばかり・・・」。

 町田の繁華街にある浄運寺には、民権時代の内ゲバでころされた医師の供養墓1892があった。戦後暗黒時代の学生運動でも頻発した、「路線対立」とかいうのが原因らしい。低レベルの思惟のとりことなり、わずかな意見の違いに激昂。集団の力をたのみ、ひとの命を平然とうばうような独自の正義が、とうじから芽生えていた。

 そのとなりには、豪農が群盗を退治したという塚も移築されている(写真下)。視点をかえれば、政府も資本家も困民も、豪農じしんもまた、群盗にほかならなかった。民権指導者は地域の顔役、名主レベルの者がおおく、のちに代議士になった者もあった。しかし末端の貧農にとっては、それで完結するはずもなかった。


 「お上よ、なんとかしてくれろ」。陳情民主主義はただ、具体策ももたずに解決を要求する。警察がなくなれば犯罪もなくなる、消防署をつくるよりは火事のない社会を作れ、そしてあまったカネを自分に回せと主張する。活動家は日本がソヴィエトになってしまえば、ソ連かなんかが気前よくお金をくれると思ってきた。

 明治・大正期の演歌というのは、いまとちがい、社会運動でもちいた風刺歌だった。「ヤッツケロ節」「ダイナマイト節」などといった物騒なものや、「増税節」「ああ金の世」なんてせっぱつまったものも。思慮に欠けたまま直接行動にまで追い詰められている、という点では、水呑百姓の激発や右翼壮士のテロ活動とも区別しづらい面があった。

 じっさい「昭和維新」では、社会主義者の多くがファシズムの波に、率先して合流してしまう。保守代議士がおこなった反軍演説にはげしい弾圧を加えたのは、いわゆる進歩的文化人。「人間機関車」とよばれた人気者で社会大衆党(当時の統一社会党)の最高幹部、「ヌマさん」こと浅沼稲次郎というひと。



青柳寺鹿島神社
 民衆たちの反政府運動は、つねに上部の意思によってほんろうされてきた。A新聞や河野広中らの扇動でおこった日比谷焼き討ち暴動1905は、政府が停戦した戦争の継続をうったえつつ、ライバル他社を襲撃したもので、これも当時は「民主主義」とおもわれていた。事件の科でいったんは処罰されたが、これを金看板に同社の売り上げは爆発的に上昇。普通選挙後は反米戦争をあおって数寄屋橋に巨大な社屋を建設。言論の独占を図るため、昭和維新をうたい内閣情報局の創設にも関与し、未曾有の400万部にたっした。

 社会主義者らもスターリンやヒトラーを崇拝、「米帝国主義を討て」などと、不急不要のスローガンに埋没。世直しと銘打って全体主義に奉仕する道を嬉々としてあゆんでいった。「米帝国主義を討つならば、アジア全体が感謝する」などと狸のかわをかぞえ、「日本はアジアの盟主になる」「アジアのために死なう」などとうそぶいた。山川菊栄が農村の近代化を謳歌した(レポ)のはそのころのことだ。

 このような衆愚政治を冷静に憂慮していたのは、むしろ明治の元老だけであったと、某新聞の編集委員・曽我豪というひとが「ザ・コラム」に書いていた。


 恐慌はかならずしも不作によっておこるわけではなかった。「寛永飢饉 鼠物語」1643には侍の「占め売り」による価格操作で発生したという説をのせている。ただ結論としては、市民や農民が贅沢をしすぎたため天が罰をあたえた、などとする「賢者の説」で、ごまかされてしまったようだ。

 エリートたちは、いまも見果てぬ夢を見る。鼻ピアスのような若者までが、マスコミが繰り出すキャンペーンにだけは、ロボットのように忠実になる。「中韓の安い労働力」「日本の若者は雇わない」。いまは自分のことよりも「アフガンの子ら」、と教えられ、ほしがりません勝つまでは、反米運動に動員される。謝罪も反省もかなぐりすて、「中韓はかならず感謝する」と主張して、たえずねつ造報道で近隣国を刺激。笛の音に酔い、惑わされ、ブラック企業も、官僚のネコババも、ひわいな隠蔽体質を持つ教職員の非行さえも、喫緊の話題はなにもなかったことのように、忘却してしまう。

 ニュース番組では自民党を懲らしめる、などとして「Tキャスターとその武装親衛隊が国会を襲撃しK首相(当時)を殺害するまで」の、妄想アニメを製作。「オウム弾圧は破防法の成立をいそぐ自民の陰謀」などと奇妙な推理を押し付けられ、弁護士一家らを血祭りにあげた。いったいだれのための運動なのか、なにひとつわからないまま、それでも新聞は、うれつづける。


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