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もちださんの鎌倉リポート No.154(2015年8月15日)



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鎌倉古道


 鎌倉西部、広町緑地もこの四月に正式に公園化されたらしい。みのもんたさんの豪邸などがある鎌倉山とよばれる高台のすそから、腰越にかけて帯状にのこった、斜地を中心とする山林だ。

 この手の保存緑地は横浜市内にも異様にあって、朝比奈の奥、円海山をはじめ、パンフレットだけでも20枚をこえる。これがいわゆる「丘のヨコハマ」、というやつ。どれもせいぜい標高30-50mていどの里山にすぎないが、ごくせまい谷戸田があったり、入り組んだ山林に沼や沢が点在したり、開墾前後の武蔵野・相模野の原風景をつたえる。


 鎌倉古道については不明な点が多い。中世の道はおもに共有地である尾根筋にあったとみられるが、集落のなかには尾根筋にあるものと谷筋にできたものがある。

 鎌倉の真北、鶴ヶ峰を越えたところにある「梅田」という地名は、いまも近くに自然の遊水池がのこるように、谷戸を埋めて田をひらいた(埋め田)らしい。一説に鎌倉古道が写真の谷奥からいったんここに下り、室町頃には宿場町になっていたともいう。鉄砲屋敷をおもわせる「カナグサ」などの屋号をもつ家もあり、街歩きでしられるエッセイスト・泉麻人さんも探訪している。

 ちかくには県内有数の蛍の名所「四季の森公園」があるけれど、さすがにこのふきんまではあまり人がこない。


 中世の板碑はすこし離れた池の谷戸の旧家にあるが、梅田では峰尾邸わきの廃寺跡の卵塔場(写真)に微妙な破片があるていど。この廃長運寺は、榎下観護寺の寮として明治の廃仏以前には存在していた。

 裏手が「新治市民の森」として保存されている。鎌倉古道はその縁を半周し、東洋英和女学院の脇、団地のへりなどをかすめながら【写真1】、里山公園のうえ【下写真】を過ぎ、阿弥陀堂墓地(弘安の板碑・レポ77)を経て鶴見川にでた、というのがひとつの説。また鶴ヶ峰から白根道を経由、下写真奥にみえるやや低いべつの尾根すじ(現在は宅地化)をとおり、念珠坂の塚や杉沢古墳、上杉憲直の榎下城跡を経由する別のルートを想定する説もあった。


 道なんかいくつあってもいいのだが、畠山重忠らも往来した中世の幹線道路「中の道」に比定するとなると話はべつ。古道を修正した新道のようなものはのこっておらず、「このあたりのどこかを通っていた」ことはたしかながらも、詳細は不明で諸説紛々なのだ。

 すこし離れたところには、国道246こと大山街道や、江戸と平塚をむすんだ中原街道といった、近世からの主要道路もある。ただ道の方向性や中世遺物の分布などを鑑みれば、せいぜいそれらも、あみだに岐れた枝道なのだろう。古道はきれぎれに分断され、ただの山道と化し、あるものは「鎌倉道」といいつたえられ、あるものは開発の波に消えてしまった。もともと武家の道は、あんがい細くひんじゃくなものだったのかもしれない。


 首都圏の地図には、「鎌倉街道」とか「かまくらみち」と通称する、比較的ながいバス通りもある。泉区飯田から万年寺の鐘のある上瀬谷あたり(県道402号)もそうだし、惣吉稲荷のある上鶴間を経て町田の鶴川街道、府中街道にむかうルートなどが「上の道」の後身としての新道に位置づけられている。ただ「宴曲集」にうたわれた善光寺への道行きには小山田をふくむなど、多少の揺れ、ずれもあるようだ。

 ちなみに学術用語としても便宜的に用いられている「上の道」「中の道」「下の道」というのは、多分に伝承にもとづく呼称で、「吾妻鏡」からの名称ではない。「吾妻鏡」にはあいまいな記述しかないため、特定のルートを呼ぶには躊躇されるが、吾妻鏡の「下道」はいわゆる「上の道」をさすらしく、ここでは混乱を避けるため、深くは追求しないこととする。


 古道の探索には、まず地形と、集落の形成、遺物の分布などがかかせないだろう。中世の城跡や寺院なんかが、ルートとはまるで無関係な場所にあったとはかんがえづらいからだ。秩父青石をもちいた板碑や、凝灰岩製を含むふるい五輪塔などは、武士がいたことを示している。

 お寺なんかは近世以降につくられたものが多く、それぞれの縁起や古記録をしらべるひつようがある。石塔についても時代の様式をみきわめなくてはいけない。悉皆調査なんていうのはまだほとんど行われていないので、詳細不明の板碑(上写真)もたくさん。地域新聞や郷土史家が集めてくれた情報を図書館などで検討する必要もある。私有地にある非公開の史料なんかも多いし、場所が変わったもの、散逸または処分されたもの、放置されふたたび土に埋まってしまったようなものも。保存について、市や県は消極的だ。


 どれだけ調べたところで、わからないものはわからない。もちろんそれはただの徒労というわけでもない。古道ぞいにはうつくしい自然があったり、季節があったり、大規模造成によって見失なわれかけた地形がある。ほんとうの自然と、ひとの手が加わった里山との比較もおもしろいかもしれない。

 新幹線で宇都宮方面にむかうと、関東平野の平坦部は海沿いよりもむしろ東北部にふかく展開しているのがわかる。いっぽう新横浜ふきんにはトンネルもおおい。南関東は小高い丘陵や台地のへりにあたるから、もともと網の目のようにいりくんだ野筋、里山だらけだった。東京にも山の手には、道玄坂とか権之助坂とかいった数多くの坂が存在し、高低差がわずかながら中世の昔をしのばせる。ただ、板碑などの目に見える遺物が、もはやそこにはのこっていない、というだけのことだ。

 


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