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もちださんの鎌倉リポート No.155(2015年8月17日)



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山崎天神山


 大船のフラワー‐センターから川と線路をまたぐ「山崎跨線橋南」にある、天神山。古戦場にもなった交通の要衝、化粧坂・洲崎千代塚ルートと山ノ内・離れ山ルートとの、スキマにあたるのが「山崎」という地名で、伝説では暦応年間(1340ころ)、夢窓国師が京都の大山崎にある宝積寺と天神をここに写し建てたのが、地名の由来とされる。

 現在も台峰緑地や鎌倉中央公園などがあるが、いまの小袋谷の信号辺りから江ノ島参詣道(山崎の切りとおし)がよこぎっていたほかは、幽邃の地であったらしい。義堂周信(1325-1388)がここにかくれすんだ折には、我が身を「沢の蛍」になぞらえた詩を詠んでいる1367。

 秋来たり、物化を看るに
 腐草、忽ち光を生ず。
 只、合(まさ)に深き沢に游ぶべし
 那(なん)ぞ大陽に近づかんことを期せん。


 山崎天神こと北野天神社は、かつて洲崎神社ともよばれていた。現在は木々が茂るままになっているが、往時はみはらしもよかったはず。山頂一帯は玉縄城の出丸(砦)だったともいい、執権守時が玉砕した元弘の洲崎合戦1333のころにも、おそらく物見台にはなっていた。

 1405銘の宝篋印塔の銘文は台座の左面から裏面におよぶが、摩滅してほとんどよめない。おおまかに意味をとれば、たぶんこんなかんじ。「本州山崎の神主教音は、長年大伽藍を建てようと願いつつ空しく過ごしてきました。先祖・・・・・・北野天神の霊託を得ました。そこでいま石塔を造り、大乗経を書写しておさめます。この作善の趣旨は、天地の平穏、国民生活の安定、ならびに六道世界の無縁の霊魂がともに余慶に浴し、往生することです。応永十二年八月二十五日。信士教音、敬白」。



*前半部分を画像加工したもの

 神社はいつごろからあったのだろう。義堂には語録と自伝、漢詩集がのこっていて、詩集を「空華集」という。その末尾近く、巻二十に載せる祭文に「祭天神文」があり、そこには「貞治元年1362、破損した相州神代郷の天神を円覚寺黄梅院の僧某が再建する」旨がしるされている。これが天神社の初見とみられるが、相州神代郷という地名がよくわからない。

 ただ黄梅院の古文書には、夢窓の弟子で師の塔所黄梅院をたてた方外宏遠という人が、天神の南麓に神宮寺として存在した宝積廃寺を管領していた旨がみえるという。


 鎌倉公方足利基氏の懇望をことわり、栄職を固辞した義堂は、貞治六年1367三月十一日、「余、寺(*黄梅院)を出でて潜かに山崎に匿る。蓋し以って三命(*世間の災い)を避くる也」と自伝に書き残す(空華日用工夫略集=日工集)。その隠れ家が宝積廃寺だった、といわれる。やがて公方基氏は円覚寺仏牙舎利の功徳もむなしく、死んでしまう。けっきょく義堂は公方の菩提寺・瑞泉寺を預けられ、もうしばらく、鎌倉にとどまることとなった。

 翌年の記事には「愛甲三州春之が夫人の葬事に、郡の宝積寺へ赴く。寺は乃ち愛甲の世庿なり」とみえる。ただし「郡の」というのは「愛甲郡の同名寺院」という意味で、この寺のことではないようだ。宝積廃寺は方外和尚の開山ともいう。いまでは旧本尊で天神の本地仏でもあった、とされる江戸時代の十一面観音像ひとつが、昌清院という未公開寺院にうつされ残っているだけ。

 天神社いりくち参道ふきんには、幟の長い竿をしまう棒舎(右灯籠のうしろ)があったが、さいきんはどこでもあまりみかけなくなった。ちなみに下方にうつっているのは立ち話をした地元のおじさんの影。


 石段をのぼりつめたところにみえてくる狛犬はひどく大破していて、片方はさらにむざんな状態。雷のようにも見えない。「としよりの話」という本によれば、かつてこの裏側の麓に山崎園という温泉旅館があり、ラジウム温泉とか「頼朝の隠し湯」などとうたった。しだいに博徒の溜まり場となり、夜ごと賭場がひらかれ、庚申さまなどを欠いてお守りにすることがはやったらしい。

 明治大正に栄えたこの旅館もいまはなく、跡地は民家になった。遺跡としては天神山の山頂まで、四国88ヶ所のミニ霊場1916をつくったのが、廃道のやぶのなかにいまも散乱している。温泉の出資者となった向島の名石工・宮亀年(三代目1843-1918)晩年の造立との説もあるが、東京のいろんな講から寄付をつのり、弟子たちの力試しに刻ませたものらしい。ほどほどの出来栄えだが、ご本人の作品は境内に立つ「天神山碑」1911だけ。


 境内の碑はほかにもいくつかあり、表題のないふるいものには冒頭にのべたような山崎の地名のゆらいが刻まれている。ただ鎌倉時代、頼朝に仕えた山崎氏の祖・佐々木六郎憲家という武士がこの地をたまわり名字とした、とする異説もある。そうだとすると地名は夢窓なんかより、ずっとふるくからあったことになる。

 このへんの温泉は東京温泉とか稲村ヶ崎温泉なんかとおなじく、武相地区におおい真っ黒な鉱泉を汲んでわかしたものだったらしい。かつて温泉マークは「逆さクラゲ」なんていって、つれこみ宿のような、ちょっといかがわしいイメージもあったから、こんな町外れにも一定の需要があったのかも。「幽邃の地」はまずこんなふうに、開発されていった。

 近辺にはほかにも、泣き塔のところの陣立園、寺分の神明温泉などがしられる。石野瑛「武相叢書」1934や「鎌倉史蹟めぐり会記録」などに往時の紀行文がある。やがてふきんの小山は戦時中に軍需工場の造成できりくずされてしまう。妖しい温泉時代も同時に、終わりを告げていったらしい。


 天神山にはほかにも民家のわきとかに、のぼり口がある。写真は山崎川の角のところ。ここからの道は参道の半ばに合流している。

 ちなみに「郡の宝積寺」を氏寺としていた、とされる愛甲氏は、武蔵横山党の一支流で、八菅修験(レポ66)でさかえた愛川町ふきんを出自とし、海老名、秦野、小山田、梶原、和田、渋谷氏らと縁戚関係をむすんで勢力をひろめ、愛甲石田(厚木市)あたりまで南下した。畠山重忠を射止めた愛甲三郎季隆が名をあげたものの、和田合戦でいったん没落し離散。室町時代には公方府の奉公衆などになっていた。ただ愛甲三州春之(?)については系図もなく、よくわからない。

 愛甲石田には季隆の墓とつたわるものが二ヶ所あり、円光寺のほうは宝篋印塔。五輪塔は「館跡」ともつたえる宝積寺のもので、こちらが「日工集」に書かれた宝積寺であろうと思われる。


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