トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第160号 


▲もちださんトップへ戻る

もちださんの鎌倉リポート No.160(2015年9月12日)



No.159
No.161



中世の道と郡・1



新吉田町
 「綴党」の項でふれた鎌倉時代の寺院・佐江戸無量寺(横浜市)は、中原街道ぞいにある。そこからさらに東京方面にのぼると、道は港北ニュータウンにでる。開発前は「横浜のチベット」とよばれ、尾根筋にはいまも高圧線鉄塔や第3京浜が併走している。

 第3京浜都筑SAの向こうに港北区新吉田町という、まだ畑の多い丘陵地区がわずかにのこっていて、正福寺というお寺のちかくの崖から以前、大量の板碑がでた。これは川崎の博物館に送られたが、それはこのふきんが橘樹郡、中世には稲毛領という、川崎市ゆかりの文化圏に関わりがあったかららしい。



鎌田堂
 早淵川をこえ中原街道をさらにゆくと、市境ちかい道中坂というところに、鎌田堂とよぶ地蔵祠がたっている(都筑区東山田町)。義朝の忠臣・鎌田正清(1123-1160)の屋敷と城山がふきんにあった、という。早淵川ぞいには、ほかにも茅ヶ崎城跡を多田行綱の城といい、荏田城跡を義経の臣・江田源三弘基の館、また亀井六郎重清が柿生あたりに住んだとするなど、たよりない伝承がいくつもある。

 ただ鎌田伝説にはもうひとつ裏書がある。さらに北上した川崎市久末の妙法寺に、「主君往生」の板碑断片1255がつたわっている。これは江戸時代の「新編武蔵国風土記稿」に碑文全体がつたわっていて、しかも以前は鎌田堂ちかくの「都筑郡山田村殿谷三宝寺」という廃寺にあった。「主君」というのは、すなわち鎌田正清。その百回忌供養を意味する、との伝えがあったのだ。

 年忌を云々するならば、むしろ保元の乱1156で正清が義朝に代わって手に掛けた主君・源為義(1156.7.30享年61)の百回忌、といったほうが「つじつま」があう。つまり正清には娘があり、頼朝は厚遇したというが、さすがにその子孫縁者が先祖の不忠を申し訳なく思い、「主君往生」をねがった、というわけ。正清の子として伝承ではほかにも、義経四天王として討ち死にした太郎盛政・次郎光政、僧になった三郎正近がみえる。



主君往生の板碑(説明版より)
    右為主君聖霊出離生
              寺主    
  建長七年(乙卯)初秋日
              良範
    死往生極楽造立如件

 断碑は近代になって、妙法寺門前の古井戸周辺から再発見された。不要な板碑が石材として運ばれてきたらしい。山崎美成が「兎園小説」に書いているところでは、多摩郡貝取(京王永山)というところで、村民がなぞの地下倉を発見。その排水樋に弘安から文明にいたる、大量の板碑が転用されていたという。

 この寺の下をながれる有馬川流域の板碑では、いぜん鷺沼ちかくの福王寺に集まったものを紹介した(レポ77)。そちらの銘文も「風土記稿」にでており、かなりまえから寺にあったことがわかる。「建武四年丁丑十二月十六日」、細かな日付まできざまれていることから、これは北畠顕家の鎌倉攻めで、安保原で討ち死にした軍功碑だったのかもしれない。杉本寺で斯波家長が玉砕したあの一連の合戦のひとつだ(1337)。



影向寺
 中原街道をさらに進む。矢上川というひとまわり大き目の小川をわたると左手に、野川・千年地区の小高い丘陵がみえてくる。崖の上のひろい頂部には、白鳳時代からの古刹・影向寺と、近年宅地化にともなって発掘がすすみ、「橘樹郡衙の正倉跡」と推定され国史跡にも指定された遺跡群(千年伊勢山台遺跡)がある。

 ここに郡庁と正税(租)をおさめる巨大倉庫群があったとすると、ふもとの中原街道も古くからの伝路であった可能性がたかまる。史跡となったことで一部は芝生公園として保存されたが、碑と看板があるだけで、復元遺構みたいなものはまだない。ただ草いきれの中をトンボがうれしそうに飛んでいる。



正倉跡
 周辺の発掘はまだすすめられている。影向寺もかつては郡衙付属の郡寺だったらしい。古代の郡の領域はかならずしも明らかでないが、近世に復元されたさいには川崎市の大部分に横浜市の鶴見・神奈川(小机領)周辺をくわえたものとされた。郡はやがて荘園や御厨などに蚕食され、地頭による二重支配もすすんだ。川崎市中北部は摂家稲毛荘をもとにほとんどが「稲毛領」とよばれるようになった。

 橘樹郡衙の消滅時期はあきらかでないが、巨大倉庫群などは早々に廃絶していったようだ。火災・放火・襲撃などをさける目的で、全国的に施設の分散やリストラがすすんだためらしい。私宅などを利用した「館」とよばれる代用官庁、または出先機関として一説に郷衙(?)ともよばれる類似施設などもあり、このことが発掘による検証を困難にしている。



影向石
 影向寺の山門の左にある「影向石」というのは、往時の三重の塔の心礎という。江戸時代の本堂(薬師堂)もかつての金堂の跡にたっているらしい。ここは行基の開山740、のち円仁の再興858と伝え、ここのみならず前述の正福寺も久末の妙法寺も、みな天台宗となっている。円仁作とつたえる、平安時代の素朴な薬師三尊(重文・11C)も収蔵庫でときどき開帳されるが、この寺のれきしはもっとずっとふるい(7C後半)のだ。

 和尚が掃いている境内には、さるすべりの巨木が盛り。乳銀杏など珍しい木もおおい。植え込みには西脇順三郎さんの詩碑なんかもあった。


 高圧鉄塔はこの台地の上にもたっていて、東の崖のへりまでくると、人気タウン・武蔵小杉の高層ビル群やはるか東京方面までが、みごとに見晴らせる。写真左下にぽつんとうつる青屋根のほこらには、中世後期の板碑がいくつもまつってある。

 祠はいたんでいるけれど、「諸願成就 久末村中 大師川原村民兵衛」と刻んだ、ドラ焼きほどの可愛らしい鰐口がかかっていて、案外ふるいいわれがあるのかもしれない。祠のうしろにつづく石段はとちゅうで切れていて、のり枠工法のコンクリート擁壁に変わっている。ものの本にみえる岩川不動というのが地図に見えないが、あるいは不動の滝のようなものが、ここにあったのだろうか。「風土記稿」には「昔不動の像ありしなるべし。今はただ古き碑を納む」とある。 (続く)


No.159
No.161