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もちださんの鎌倉リポート No.161(2015年9月15日)



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中世の道と郡・2



応永・康永・暦応・文明&永享
 祠の中心に据えられた板碑(写真中央右)がもっとも古く、「暦応四年辛巳二月日」1341。やはり年号は「風土記稿」が引く岩川不動の記述と一致していた。うすぐらい祠のなかに固定されているため、銘文の全体(下写真)は読みづらい。「彼卒都者仝本地大・・・如来阿弥陀仏形如・・・罪障消重倍成仏道・・・為青蓮華直通菩提・・・」。

 例のごとくデジカメの高感度モードから検討したものなので、あらためて現物を精査してみれば、多少のよみ違いもあろうかと思う。そのほかの年号は「康永三年 二月日」1344、「善海禅門 応永廿九年 卯月八日」1422、「永享」、いちばん新しそうな断片は「文明十六年八月」1484。


 ここの地名は千年(ちとせ)だが、もとは岩川村といった。「風土記稿」には戦国時代にひとがこもった巌窟や、尊氏のころに討ち死にした者をうめた八人塚などのつたえもみえる。鴨志田板碑とおなじく、「腰巻」などの小字もあったようだ。暦応四年といえば尊氏と直義が「両将軍」として君臨した時代。

 かつて訪ねた小山田ちかくに、図師乱塔場(熊野神社裏)という伝承地がある。かつて山ノ内との内訌で領主・扇谷上杉が、青石の産地でもある河越ふきんの合戦に55人の村民を徴用したところ、塔婆になって帰ってきた。現在は行方不明になってしまったが、じっさいそこでおなじ記年銘(1493)の板碑55枚が発掘されたという。図師という地名の由来は扇谷領となった小山田荘の荘官(鎌田氏)とみられるから、ちいさい碑なんかは、恩賞代わりにあたえられたのかもしれない。


 ジョナサン千年店でひとやすみしたあと、帰りは別のみちをとおって横浜市営地下鉄・高田駅まで南下することにする。

 名高い子母口貝塚が発掘されたあたりは、縄文早期からさかえた古い土地。蓮乗院という寺の横に、ちいさな橘樹神社がある。住宅街に囲まれ、鳥居も社殿もとるにたりないあたらしいものなのだが、ビーグルの親子みたいな珍狛犬(山犬)や、山岡鉄舟(1836-1888)がしたためた祭神ヤマトタケル・弟橘媛の歌碑が建っている。郡衙発掘いぜんは、ここが橘樹郡発祥の地とされていた。

 走水で亡くした弟橘の思い出に、タケルはこのちかくの冠塚(富士見台古墳)に形見の御衣・冠を埋め、彼女の名を地名とした。歌に詠まれた、社頭の「日本武の松(とことはの松)」はすでに覆い屋のなかに枯れ木となっている。それも虫の巣となりカサカサに崩れ落ちていて、いまにもアワー‐グラスのなかの砂になってゆくけはいだ。


 市境を越える道は、さきの中原街道よりずっと高くきつい坂。「ここより都筑郡の方へは、いよいよ高低の地つづきなり」(風土記稿)。くだる途中に「雅楽演奏」でしられる高田興禅寺がある。ここも円仁創建853となのる天台寺院。新しい多宝塔がたつくらいで、そう目をひくものもないが、門をはいってすぐ右に古い石幢があり、しょぼい板碑もちょこっと添えてある(右下)。

 六面石幢の本体は関東にはめずらしい花崗岩質(*桃色で粒粒)で、説明文によれば文保二年1318、足利家の御内人、桃井直常(もものいただつね)というものが寄進したことになっている。「風土記稿」には文保銘の手洗い鉢とあり、かつては鎮守愛宕社のまえに埋められ、たかさ四尺ほどの手水鉢に転用されていたようだ。戸倉英太郎「都筑の丘に拾ふ・続編」によれば、笠石の下が「つくばい」のようなおおきな穴になっているらしい。全体に風化が強く、銘文云々はわからない。



左回りに
 太平記の武勇でしられる桃井直常(?-1376以後)は直義方の与党だったため、高師直と反目。観応の擾乱にいたって尊氏方への対立姿勢が鮮明となる。直冬を奉じ、または鎌倉公方をたより、幕府にも帰参したがふたたび離反、各地を転戦し消息を絶った。興禅寺周辺のつたえでは、門前の天神の丘に屋敷があり、同寺を再興1320、天神社を建立1325。塚の跡という場所もある。ただ直常の墓とつたえるものは、富山などにもある。

 この地の伝説は太平記以前、それも直常の若年期に著しく偏っているのが、ややもすれば不審をさそう。それでも桃井などというじみな武将をえらび、この地の領主として叛逆以前の功績をならべたてているのは、やはりなんらかの含意があるのかもしれない。



竹に雉鳩
 中原街道は江戸期にいたり、家康の別荘があった小杉御殿(武蔵小杉)、中原御殿(平塚)をむすぶ脇往還として再整備されたという。東京には池月伝説のある洗足池なんかもあり、一部を鎌倉街道下の道などに比定するひともいる。

 ふるい駅路・伝路は郡衙をむすんでいた。沿道では一宮寒川神社近隣の七堂伽藍遺跡(現茅ヶ崎市下寺尾・北陵高校ふきん)が「高座郡衙跡」と考えられてきている。その対岸、平塚市四之宮、中原は相模国府および関連遺構とされる。「都筑郡衙」と推定されるものは大山街道(246)ぞいにある長者原遺跡(横浜市青葉区・荏田猿田公園周辺)。ここには古東海道武蔵路が併走していた、との説もある。「鎌倉郡衙」は、古東海道上総ルートにそった今小路西遺跡。



空の道
 郡司は古代に国造といわれた豪族だった。郡衙の全盛期には正税にたいする強い権限をもっていたらしいが、やがて貪欲な受領と対立。国府に権限をおかされ、ゆうめいな「尾張国郡司百姓等解文」988にみられるていたらくに陥る。

 いっぽう、古代の軍団が廃止され郡司らはこれに代わる健児(こんでい)というものに編成される。しかしかれらは受領の手兵であることに甘んじず、あっというまに武士の勃興に道を譲ってしまう。そもそも武士を在地に深く呼び入れたのはだれだったのだろう。政治的に没落した郡司層が郷司・田堵負名・荘官なんかに身をやつしつつ、都くだりの悪党なんかとひそかに婚姻関係を結び、手を携えて受領の圧迫に対抗、武士の台頭をもたらした・・・そんなドラマチックな裏事情さえ、想像されてくるのだ。


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