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もちださんの鎌倉リポート No.164(2015年10月2日)



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黄金やぐら・・・


 黄金やぐらがみつけにくい、というのは名越自治会館のところへ左折する、その坂ののぼり端が、あたらしい造成地のようにみえるからだろう。そして山道につきあたるすこし手前、ドブとみえてドブにあらず、底のほうにやぐらがみえる。盛り土の下になっているので、Googlマップのストリート‐ビューなんかでは、空色の金網しかうつっていない。

 ものの本によれば「ヒカリゴケがはえているから、その名がある」。しかし金色にひかるさまを実際に見たものはない。いわゆる「がっかり名所」なのだ。


 ヒカリゴケや水に浮くヒカリモは発光植物ではなく、猫の目のようになった細胞が、暗がりでメタリックに光を反射するだけのもの。よほど繁茂しても金箔のようにはみえないだろうし、自生地には天然記念物に指定されたところもあるほどで、栽培も難しそうだ。

 いっぱんに苔石段などにみられる天然のコケは、団子状にモコモコした薄色のシラガゴケ類、杉の葉のような鮮やかな緑が美しいスギゴケ類などで、これも環境の変化でとつぜん大発生したり、一夏で消えたりと、けっこう気難しい。妙法寺でも杉本寺でも、ホースで水道水をたれながしたり水持ちのいいケト土をまいたりと、「わびさび」の気分を演出するのに、けっこう気をつかっているのだろう。


 ヒカリゴケという原始植物を世に知らしめたのは武田泰淳の戯曲つき短編小説。やぐらとは何の関係もない戦時中の北海道の話で、飢餓によってやむにやまれず人肉をたべた人物がさばかれる。かれがいうには、人肉をたべた者には必ずヒカリゴケのような、ぼうっと光る緑色の輪がみえるという・・・。

 じっさいそんな伝説があるのかは知らない。それに小説が告発したかったのは、被告の犯した食人行為、それ自体ではないのだろう。戦争を利用し、道義をふりかざして死を迫り、他人の命をカネに変えては、ブクブクと肥え太ってきたマスコミ文化人たち。他人事のように取り澄まし、日々他人を責め裁いてはとくいがる、あなたがたこそ、食人鬼。あなたがたにも、光の輪がみえる。たぶん、そういうことを、いっているのだ。



小鳩豆楽みたいな
 コケ類は遺跡にとって、あまりよいものではない。百八やぐらの大五輪窟は、高さ3mあまりの分厚い五輪のレリーフでしられるが、そんなでかい彫刻が、消えかかっている。入り口が埋まり、石室全体が生け簀のように深くなっているのももちろんだけど、岩盤に亀裂や帯水層があって、ここにばかりに大量の水がたまり、そしてすぐにぬけてゆくのだとか。

 左の五輪なんかは、下半分がじとじとに濡れているのがわかる。粉っぽい落雁を、なかば抹茶に浸したような。おなじ落雁でも、仏様にそなえる餅粉みたいな味気ないやつと、こうばしい豆粉や和三盆なんかをつかった口溶けのいいやつとでは、素材からちがう。コケ類も、口溶けのいいやぐらを好むようだ。


 こちらは場所が変わって、窟(いわや)不動。金網が張られよくわからなくなっているが、むかしは奥壁に線刻された不動があったという。そもそもこれは「やぐら」なのかなんなのか。ならびにある川喜多映画記念館のうしろの崩壊した「やぐら群」は奈良時代の横穴墓からの転用やぐららしい。

 奈良時代の横穴墓は県内におびただしくある。なんどか白骨がよこたわる発掘中の穴を見せてもらったことがあるし、造成でこわした横穴群のいちぶが、団地わきの公園の斜面にまだ手付かずのまま埋め戻されている場所もある。いりくちは玉石か礫かなんかで固めてあるが中世になって開口し、奥壁の棺台を須弥檀に改造、五輪塔や板碑が追葬されたものも多い、という。立面は一升瓶を縦にきって寝かせたような、丸みをおびたものがふつうだが、内側から家型に柱なんかを刻んだものもある。


 境内は以前から不動茶屋という甘味&食堂の前庭になっていて、堂守をかねている。その茶屋のHPによれば初代の窟はもっと崖の上方にあったとしている。「弘法大師が描いた」とする不動像はいつしか石仏にかわり、いまは金網の窟をでて、祠の中におさまっている。

 巌堂の地名は吾妻鏡にもみえる。岩屋観音などの類は全国に多く、頼朝以前からなんらかの石窟寺院であった可能性もある。川喜多記念館の地は、石橋山の敗戦で「しとどの岩屋」にかくれた頼朝が熱心に祈った伊豆箱根二所権現の奥宮、日金山東光寺地蔵堂を模したという松源寺があったところなので、この岩屋もその伝承に関係するとのみかたもある。室町時代の書状には「岩井堂日金」云々、と一括され、鶴岡十二坊の持ちで社僧の墓地があった、とされている。



愛宕社参道
 茶屋の裏口ちかくにある石段は、愛宕社の跡。つい数年前に覆い屋が台風で破損、茶屋のほうで片付けたものらしい。神社というよりは鎮守のほこらみたいなものだったのだが、荒れた石段もいい味わい。ちなみに太平記にでてくる天狗堂(愛宕社)は御成小学校の裏山、天狗堂崎にあったとされるが一般ののぼり口はない。

 社僧・神官らの墓石は宅地化に伴い、うらの浄光明寺墓地にうつされた。また同寺むかいの新清水寺(東林寺)跡の墓地やぐら内にもあるという。また泉の井のそばに「松巌寺殿・・・」の古碑があるが風化してよめない。この松厳寺は松源寺のことなのか。あるいはまた「源氏物語」研究で知られる松巌寺殿・四辻善成(1326-1402)にまつわるものなのだろうか。


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