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もちださんの鎌倉リポート No.165(2015年10月9日)



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石のひみつ・1



金剛窟にて
 鎌倉の石はやわらかな泥岩質の水成凝灰岩。こんにちでは採取が禁止されているため、浄妙寺の奥とか、廃石をためてあるところから、みつくろって調達しているようだ。

 やわらかい石は加工しやすく、熱を通しにくいなどの利点もあって竈材などに重宝される反面、風化や磨耗に弱い。京都周辺、滋賀あたりは石山寺、なんていうのがあるように、硬い花崗岩が豊富なため、お城の石垣なんかも地産の石が利用できた。安土城跡には石部神社が付属しているし、あのへんは「佐々木」氏の本拠だったところで、語源は「み・ささぎ」、つまり陵墓の石を引いたり穴をほったりする人々が古くから住み着いていた地名らしい。穴掘りの品部がやがて穴生衆になったという。



妙本寺
 石垣のばあい、かならずしも切石にするひつようはなかった。かさなりあう石同士の重心のバランスがとれた、熟練のつみかたであるかどうか、だという。信長のお城でも岐阜城にはあまり石垣がないが、あの山は海洋地殻のチャート層や、ところてんを突いたような柱状節理をもつ玄武岩塊がいたるところにみられ、石垣加工には向かなかった。

 鎌倉周辺で固い石をもちいるさいには、遠く伊豆・小田原近辺の石が運ばれてきた。とくに小松石・根府川石などとよばれる種類の安山岩や、ごくまれにみられる花崗岩質のものは鏨(たがね)でないと加工できないのだが、それでも風化はまぬかれない。いまでは和賀江島の石はすべて、漬物石のようにまるくなってしまった。後世、江戸城のための切り石とみられるものも、波の底ではたがいにこすれ合い、すっかり角をなくしてしまった例がある。



片瀬
 石灯籠などは風化の味わいを高級品とするらしく、わざわざ放置して苔をつけたり、人間国宝のひとが言っているのだからまちがいないが、「古いもの」を再利用したりする。大仏殿の礎石がいちぶ水鉢に加工されたりと、ふるくは文化財に手をかけることも辞さなかった。後北条時代の小田原城には、なんと五輪塔の地輪ばかりをあつめてタイルにしたモダン庭園があった(御用米曲輪跡)。

 墓直しなどででる廃石を利用することは奈良の寺院などでもおこなわれており、薬王寺に奉納された板碑はかつてどぶ川の橋になっていたという。

 石屋にならんでいる塔などは、中世のものとちがってオリエンタルなかんじがする。宝筐印塔の猫耳(方立て)には四天王のような天部がきざんであるが、印塔のルーツとされる銭氏塔もそうなっている(「塔について」レポ33参照)。


 安養院門前の大きな標石のうらには、頼朝卿之塔とか、政子御前之墓などときざんでいる。これはレポ33で紹介した徳治三年銘(1308)宝筐印塔などのことだが、これには良弁房尊観(1239-1316)の墓、などという異伝もあって、さだかではない。ただ追善塔ならどの時代でも、だれの墓でもよいわけで、さかしらな考証でむやみに寺伝を否定していいものでもない。

 安養院という寺は、尊観がこの地(?)にひらいた浄土寺院・名越善導寺と、文学館のところにあった長楽寺(政子発願・願行開山)、また田代観音(尊乗開山)という寺などが合併したもので、前身の寺についても不明なうえ、徳治三年塔が、もとよりこの地にあったものかどうかもわからない。境内の「人丸塚」なんかはもともと小町にあったものを移築したものだ。由比ガ浜にのこる染谷時忠・良弁僧正の伝説(レポ104)も、あるいは良弁房尊観の訛伝とむすびついているのかもしれない。



材木座にて
 この「大師道」や「馬頭観世音」は碑面からみても近代以降のもの。「大師道」は普陀落寺や岐れ道、笛田なんかにもあるが、みな「雲照弘徳会」ときざまれている。場所柄「弘法大師相模二十一ヶ所霊場」のみちしるべとみられ、施主は東京の住民。「雲照弘徳会」というのは、おそらく明治の名僧・釈雲照律師(1827-1909)にまつわる団体だろう。著作物などで律師没後、数年の活動は確認できる。

 雲照はレポ78でちょっとふれた、三会寺釈興然のおじ。明治の廃仏運動にあらがい、宗派を越え、仏教界の再興に尽力。仁和寺門跡になったりもしたが、全国各地をめぐり霊場選定や振興にもかかわった。21ヶ寺はすべて明治以降に存在した寺ばかりだが、霊場めぐりはすたれ、のこる道標もわずか。覚園寺裏山に残骸になってのこっている88ヶ所の大師群像も、この霊場に由来するらしく、朱たるきやぐらの上にある道標には、双方の記載がある。

 これとは別に藤沢市を中心に「相州準八十八箇所」が江戸後期にさだめられ、大師像がつくられたというが、廃寺もおおい。山崎天神山のものは、別項にのべたとおり。



神奈川本町・美しが丘西
 近世の行者でよく知られているのは、徳本行者(1758 -1818)や木食観正(1754-1829)など。徳本碑といえば独自の書体による「南無阿弥陀仏」の名号がめをひく(レポ55写真6参照)。鉦や木魚を激しく叩く独自の念仏行でしられ、晩年は公儀によって江戸に招かれ、諸大名をはじめ近郊の庶民にも布教して絶大な人気を誇った。

 木食上人というと、木食戒をうけた真言僧としては下層の一派だが、秀吉に仕えた木食応其(1536-1608)や鉈彫り仏でしられる木食五行(1718-1810)は有名。木食観正は小田原を拠点に南関東をくまなく行脚し、やがて些細なことで幕府にとらわれ、獄死した。阿字とよばれるこの梵字もかれ本人の筆跡によるもので、細字の光明真言が下から時計回りにめぐっている。



禅居庵裏
 五輪塔の種子「キャ・カ・ラ・バ・ア」は、大日如来を示す宇宙の五大要素、したから地・水・火・風・空をあらわす。覚園寺の五輪のちょうど「カ・ラ」のところに蝉の抜け殻がついたのをみたが、あの寺はうるさいので、写真はない。

 種子は四面によってややことなり、正面(東)を発心門、みぎまわりに修行門(南)、菩提門(西)、涅槃門(北)と称して成仏の完成をあらわす。ただし現在では、ねじれて置かれたものも多く、コンパスがわりにはならない。

 南側は各梵字にひげがついていて、「キャー・カー・ラー・バー・アー」と長音をしめす。西側はうえに点がついて「ケン・カン・ラン・バン・アン」と撥音を、北側は横に点々で「キャク・カク・ラク・バク・アク」と促音をしめしている。たとえば阿弥陀をしめす「キリク」も、「カ」と「ラ」のくみあわせに、母音記号「イー」と点々、その他装飾の三弁宝珠やひげなどをつけてキリークとよませている。梵字の詳しい説明は、マニアのHPを要検索。


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