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もちださんの鎌倉リポート No.166(2015年10月14日)



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石のひみつ・2


 古代に比べれば、中世以降の文物はたしかに多く残っているのかもしれない。ただそれは「謎が多い」ということでもあって、けして「ありふれている」とか、「なにもかもわかっている」ことを意味しない。人気の古代史に比べ、保護も研究もさかんではないようだ。

 妙法蓮華経とほられた妙本寺の五輪塔。かなりの大きさだが一見してちぐはぐで、火輪の庇もなんだか短く、よせあつめか削りなおしとみられる。五輪塔はもともと日本で新義真言宗が発案したもの。比較的親しい浄土系はともかく、対立する宗派が積極的に採用するはずはないから、拾いものか、あるいは日蓮宗に転向する過程で示威的に変造した蓋然性がたかい。捨てず残してくれはしたが、もとのすがたはうしなわれてしまった。


 板碑などには中世の年号が読めるものもあって、右から「嘉暦元年八月」「暦応」「乾元二年八月日」「元徳元年十一月日」、「応仁二年八月日」のは妙金逆修、禅尼なにがしの法号もみえる。これらは比較的読めるほうで、風化が進んだものは先人が読んだ記録を「当時はまだ文字が解読できた」ものとして信用するほかない。

 県や市町村の文化財クラスになる年代のものを、地域によってはまったく指定しない自治体もある。もとの場所を失い、不幸にも骨董屋にでまわってしまったものには、ざんねんながら価値はない。土器や瓦片を刷毛でやさしくとりあつかったり、さして古くもないつまらぬ仏像を「撮影禁止」などと勿体つけているわりに、あんがいこうした、地域史の鍵にも寺宝にもなる貴重な考古遺物が、粗略にされているのだ。


 鎌倉時代の五輪塔には凝灰岩製が多く、やわらかいので精緻に水磨きしたり、漆喰や胡粉、金泥で装飾したらしいのだが、風化にはあらがえず、しぜん野外むけの硬い安山岩(伊豆石)製にとってかわった。鑿で削ることができる凝灰岩製はやぐら、という屋根付きの葬制の発展にもかかわっているはず。

 これは横浜の宝帒寺というところに保存されている、転用やぐら出土の地輪(レポ77)。「アーン」という梵字がまだきれいにのこっていた。「諸子・・・敬白」などの銘文もある。

 さいきん金色の観音像の前に移築されたが、相変わらず石のくみあわせはちぐはぐなままで、出土時のものではない。水輪などの部材は、このところ全面が剥離して、かなりボロボロになってしまった。鏡花の小説なら、こういうものは着物をかけてから運ぶべきものなのだ。


 光照寺の「おしゃぶき様」はあたらしいが、横浜市の真福寺のほこらにあるこれなんかは、むかしの信仰をつたえている。病を除くおしゃもじが上がっているし、カーンの種子のしたに咳の御姨(?)の文字も。

民俗学では、守宮神、御社口、蛇苦止明神、関の明神、疱瘡ばあさんなど、みなおなじ系列にあるらしく、もとは敵や魔物の侵入をふせぐため、穢れをつけた石なんかを村の入り口に置いたなごりなのだろう。集落のいりくちに墓や塚をおいたり、貝塚の土器片なんかも、とがった面をうえにむけておいてあるのだという。未開国では病を吹き込んだ竹かなんかを道において、他人にうつす厭物の呪(まじない)が、近代までさかんにおこなわれていた。

 鎌倉のおしゃぶき様で特に変わったものといえば、一の鳥居近くにある伝・畠山重保墓ともされる宝筐印塔が転用されていた例。



横浜市緑区新治町(享保)
 これは「六十六部」の廻国巡礼供養塔。うえの連弁になにかのっていたのが、欠失している。「奉納大乗経六十六部」、すなわち「法華経」を書写して日本全国六十六州の指定の社寺に納めてゆくもので、これらは結縁した村の記念碑であるらしい。六十六部の起源は、天下をとった頼朝と時政が前世に、僧・頼朝(らいちょう)坊と箱根法師として廻国の功徳を積んだことに由来する、とされる。

 中世までは廻国行者じしんが経塚に写経を埋納した事例もおおかった。だが近世には飢饉などでホームレスになった困窮者も参加、実質的に行くさきざきで供養(施し)をうけることが目的となった。寛永寺が元締めとなったらしいが、ふるくは遍歴のスパイなんかもいたようだ。「切死丹濫觴実記」には慶長三年ごろ、近江丹波のあたりから六十六部をまねて、各地にキリシタンを勧めた者がいたと記す。


 文字だけの塔はひかく的あたらしいものが多い。講の造塔は「四季別書写読誦一結衆」の刻銘のある宝筐印塔(レポ61)がしられ、板碑にも「月待」「寒念仏」「庚申」などと刻まれるものがでてくる。近世板碑や笠塔婆、石仏、みちしるべなどさまざまな形態をへて、幕末明治以降、こうした味気ない碑がふつうになる。

 夜叉塚は三軒茶屋の目青不動、二十三夜塔は横浜の佐江戸、地神塔は子安にあったもの。「夜叉塚」はめずらしいが、由来は不明。「二十三夜」は月待講のもので、月の化身・勢至菩薩の縁日とされる二十三夜待ちがとくにさかんになった。月が出る未明までみんなで飲食をしてすごす。だが町内会とか、青年会館なんかができてくると、こういう集まりも辻の地蔵堂のようなものも、しぜん無用になってくる。

 鎌倉の古老による証言集「としよりのはなし」には、太子講、山の神講、庚申講、稲荷講、月次念仏講、伊勢講、地神講、天王講、秋葉講、恵比寿講、地蔵講などさまざまな講がみえる。二階堂では、法華に転じた家が念仏講の当番になると、間に合わせにお題目をとなえたという。厳密な信仰内容よりもまずは「村のつどい」、つきあいのほうが大事だったわけ。


 これは江戸期の出羽三山供養塔(横浜市緑区)。講中の者が代参をはたした記念にたてた。碑も立派だし、さすがにこんなのを目にすると近世村人の宗教的情熱をあなどるわけにはいかない。かまくら古道とされる近くの念珠坂、というところにももう一基あったのだが、団地開発の果てに処分されたらしい。

 役人のすることはどうもわからない。熱心に論文だの、「ふるさと歴史ウォーク」なんぞをしたためておきながら、保護については二の足ばかり。地権者と相談したり、議員に陳情するのがそんなにむずかしいのだろうか。「とっておけ」とひと言あれば、とりあえずリヤカーにでものせて市民の森の片隅にでもおくだろうに。もうちょっと智恵をつけて、と願う市民もおおいはず。


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