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もちださんの鎌倉リポート No.167(2015年10月18日)



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石のひみつ・3


 こういう六面塔を石幢(せきどう)というらしい。幢とは旗かざりのことで、ふつう金銅製の立派な「吹き流し」のようなものがお寺の本堂につりさがっているのだが(写真下)、板碑の本場、埼玉県などには地面に板碑を六枚くみあわせ六角の天井石を置いたものがいくつか残る。板碑がもともとは塔(卒塔婆)ではなく旗(幢幡)にゆらいするという異説の、根拠ともなっている。

 この六面幢は六地蔵を刻んだもので、小山田の大泉寺にあった。六角柱となった塔身はすでに幢幡のおもかげはなく、卵塔や石灯籠をささえる竿石が太ったようにしかみえない。



龍宝寺(植木)
 お堂にかざる幢幡は、天蓋や吊り灯籠、瓔珞をたらした幢幡型照明(シャンデリア)などとセットになっていることが多いが、旗面をあらわす帛がだいたい六面に組まれてある。帛のぶぶんにはふつう名号や種子などを書くが、供養主の戒名であるばあいもある。

 小山田氏については別項でもふれたが、現地の伝えでは稲毛重成や榛谷重朝、小山田行重兄弟もみな被害者で、畠山重忠とともに「二俣川で将軍実朝に攻め殺された」ことになっているらしい。その後、新田義貞に与した小山田高家なるものの活躍をみたが、この地は扇谷上杉の所領となり、長尾景春の乱後、現在の寺がたったという。わらぶきの、味のある伽藍だったらしいが、いまは四天門などをのこしてコンクリートで復興されてしまった。


 昨年いきなり噴火した木曽御嶽は近世山岳信仰の中心地。鎌倉にも戦前にはさかんに講がつくられたようで、長谷に森已之助さんという先達がいたことが、「鎌倉の三ヶ月」という大正時代の本にのっている(国会図書館近代デジタル‐ライブラリー)。

 なかにはよくわからないものもあるが、「八海山(越後)」「三笠山(上野)」「継母岳」「駒ケ岳」「長崎明神」などは諸国に本所がある御嶽三神、または峰々にある別所のこと。また、いくつかは枯れた苔類がまとわりついて、ほとんど碑文が読めない。はがすと「白あばた」になって、かなりみぐるしい。石碑のなかには直射日光などによる温度変化の繰り返しによって表面が風化・表層剥離するものもある。ひところ膨張するガラス質のはいった不良コンクリートが鎌倉市中で問題になったが、水分の凍結や塩分の析出(再結晶)なんかも、ポップアップの原因になるようだ。


 これは藤沢の常光寺裏にある弁慶塚。弥陀三尊の種子と「・・・塚」の文字はあきらかだが、肝心の「辨慶」の部分がなかば剥離してしまった。碑じたいさして古いものではなく、伝承にもとづいて幕末ころにつくった供養塔とみられるが、よほど保存状態の悪い時期があったらしい。

 伝承の民俗学的な価値にきづかない学者などから「根拠がない」「荒唐無稽な迷信」などとさかしらな批判をうけ、いつしか名所案内から姿を消し、放置されていった。近年ようやくその価値がみなおされ、祠のようなものにおさめられている。かつて覚園寺墓地で、墓石に抱きつくようにして、まるで「三助」さんのようにボディ洗いをしている方をみかけたけれど、たまにはそういう献身的なケアもひつようなのだろう。


 これらは藤沢常光寺、白旗神社境内にある各種庚申塔。青面金剛、阿弥陀仏、帝釈天などさまざまなすがたに刻まれるのは「庚申について」の項でも紹介した。

 笠塔婆のかたちをした常光寺のもの1659は、側面に「南無阿弥陀仏」ときざんでおり、正面上部にも阿弥陀三尊の種子(梵字)をあしらう。めずらしいのはその下に大日如来の真言「ア・ビ・ラ・ウン・ケン(地水火風空)」をそえていることで、これは五輪塔や卒塔婆に書かれる「キャ・カ・ラ・バ・ア」を下から読んだものとおなじもの。庚申塔であることは、下部にみえる鶏と猿のマスコットがしめしている。新義真言宗は浄土宗とも親しく、阿弥陀・大日同一説(レポ33)が庚申の信仰にもまだ、のこっていたわけだ。



横浜市・保寿院
 ここのお寺では「地水火風空」の五大を漢字できざんでいる。これは禅宗(曹洞宗)寺院におおいようだ。五輪塔は五大を○△などに記号化し、三角形を屋蓋型にするなど日本で独自にアレンジをくわえ造形化したもの。これはインドや中国にはないものだが、宝篋印塔はほんらい陀羅尼をおさめる経函と塔がセットになったものにゆらいする。

 鎌倉時代には函であった部分が塔身とされ、そこに金剛界の四仏の種子(梵字)や四方仏をきざんでいる。これは函のなかに想定される宝篋印陀羅尼を大日如来とみなした表現らしい。塔は元来、ストゥーパ(釈迦の墓)なのだから、陀羅尼を如来の法舎利とみなせば函もまた直感的に塔そのものとなる。梵字を月輪や蓮台・瓔珞でかざったりするように、文字(種子)や塔などの記号であらわされる仏像のすがたを三摩耶形、と呼んだ。


 富士仙元大菩薩、の碑があるのは横浜市の小机城のはずれ。城の物見台を再利用して富士塚にしたものらしい。塚はちいさいけれどかなり急で、旧態をとどめている。

 こうした塚は、宅地開発などで切り崩され変形することがおおく、碑石だけを路傍にまつったり、あるいは「保存」と称して、わざわざ四角い基壇に築きなおしたりしているばあいが多い。土の部分も塔のいちぶ、塔の本体であるということを忘れてしまっている。五重塔などでも、上部の金具部分・相輪は幢(旗かざり)にあたり、それより下に塚本体をかたどったドーム状の覆鉢や露盤をきちんと置いている。

 塚のなかみはなにも出土しないこともあるが、霊仙山の仏法寺跡の塚からはたくさんの五輪塔片がかたまって出土するなどしている。 


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