トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第169号 


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もちださんの鎌倉リポート No.169(2015年10月25日)



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石のひみつ・5



影向寺(川崎市宮前区)
 力石、のたぐいはどこにもあるが、これには「飯田石 太尾村重次郎」の刻銘があり、「綱島村久太郎・品川三治郎」云々というのは二位・三位の者らしい。転がすくらいはできそうだから150kg、あたりか。太尾村とは現在の東急大倉山ふきん。飯田石というのは、渡辺崋山も描いている江戸一番の力持ち、飯田町金蔵クラスの、ということなのだろう。

 京都・醍醐寺の五大力さんでは、いまも毎年のまつりに男子150kgの鏡餅をもちあげる。五大力とは不動明王を中心とする五大尊のことで、「旧訳仁王経」にでてくる異称にもとづく。これはたんなる力較べではなく、神明仏陀の助力、冥感にかなうかどうかの占いでもある。鎌倉にも「お手玉石」なんていうのがいくつか存在し、牢破りの景清、朝比奈三郎など、中世鎌倉のキャラクターにもいつしか、超人的な怪力伝説がうまれていた。



左は五所神社の線刻不動
 市川海老蔵さんの団十郎家を「成田屋」というのは代々、成田不動を信仰してきたため。江戸の名優・七代目団十郎は眼力がすごかったようで、大当たりをとった演目はみな「にらみ」をきかせたもの。これを歌舞伎十八番などといって、ド派手な隈取で有名な「暫(しばらく)」なんかもそう。一目見れば風邪を引かない、いまでも縁起をかついで、「ひとつ、睨んで御覧にいれましょう」なんてやる。

 「暫」の主人公は鎌倉権五郎景政、坂下御霊神社の祭神だ。景政の力持ちにちなんだ力餅の包みに「景政の目玉田螺も力餅」とある。目玉は後三年の役で片目を射られたという伝説にちなむ。「景政が片目をひろふ田螺かな」という其角の句があるが、そんなものよりスタミナ満点力餅、ってことなのだろうか。ちなみに片目を射られた景政がそこで息絶えた、とされるのが、レポ160でふれた新吉田町にある御霊堂。16歳の若武者だったという。



久末妙法寺(川崎市高津区)
 これらの線刻碑は「恵心僧都御筆」と彫られているが、そう古いものでなく、先祖の菩提のために供養された近世の碑。古来、源信筆とされる軸物はおおいが、元絵を複写した版画のようなものもはやくから頒布されていて、それを引き伸ばして下絵にしたらしい。

 幕末から明治ころの碑は自然石を生かしたようなものが多く、もはや塔という感覚はうしなわれている。だが右の来迎阿弥陀などはレポ151で紹介した板碑の図像とほとんどおなじもの。板石塔婆を「板碑」とか「古碑」と呼んだのはじつは江戸時代になってからの俗称であり、当時の感覚では石のかたちなどどうでもよくなっていた。

 加工しやすい緑泥片岩が産出しない地方では、早い時期から不定形の割り石をもちいた板碑(?)の例があるようだ。



金蔵寺・王禅寺
 右・王禅寺の板碑は立派なほこらに納められているが、奇妙な補修がみられ、その補修もなんだか欠けている。地域紙「柿生文化」69号によれば、明治の廃仏時代にもねづよく信仰されたため、警察が押収したところ祟りがあった、そんな曰くがあるという。お塔婆に墨でかかれた道忍禅門とは何者なのか、説明はない。天台僧で道忍さんといえば声明の研究者・多紀道忍氏がしられているものの、これは近代の人だし、ゆかりも知らない。

 王禅寺は得宗北条方として新田義貞の焼き討ちに遇い、「死人坂」「飢渇山」など激戦をうかがわせる言い伝えもおおいが、板碑からはなにもうかがえなかった。命日とみられる、建武元年甲戌十月××日付の板碑があるのは横浜市港北区の金蔵寺。こちらも天台寺院だが、この地域の歴史はもとより、寺のくわしい事跡さえも、つたわっていない。



鴨志田・小山田
 村の多くの神社は神社整理令によって合祀され、いくつかは本殿外に摂社として、あるいは写真のような残骸としてあつめられている。原地に鳥居や石段などの痕跡がのこる例はまれなようだ。記録にとぼしく、周囲の地形も改変され、記憶から完全に消えうせたものさえあるにちがいない。

 こうしたいくつかの石は、過去の信仰とむらびとの集まりをものがたる、過去からの置手紙なのだ。おのおの過去になんらかの霊験があって、まつられたものなのだろう。ただよそものにとって、知らない土地の神仏なんかに特別な価値は見い出しにくい。閉鎖的な村の講に、あるいは古参のムラ長がのさばる町内会なんかに、そう易々と溶け込むことなんて、できるものでもない。最後のジジイが死んで、ふるい共同体とともに、神仏の命もまた、終焉をむかえる。



榎下村・小山村・北門村
 地蔵の銘文から、村の成り立ちがわかることもある。いぜん横浜市域に分布した綴党についてしらべていたとき、地蔵のいちぶに見慣れぬ村名が刻まれているのをいくつか目にした。たとえば写真の「北門村」とか後家宮村とかは、江戸期にも正式の村名にはされなかった、羽化以前の集落だ。

 また「武州小山村」というのはいまも川辺にある、田圃と果樹園ばかりのちいさな町。これらはもともと、宅間上杉の城があった榎下郷が細分割されたもの。江戸時代の武蔵国郡郷庄領志によれば、たとえば「十日市場」村には「榎下郷・師岡庄・小机庄・神奈川領」など、ふくざつな変遷をしめす注記がある。

 だがゆらいの新しい小山村には「領庄郷の唱え、これ無し」。たぶん近世に新田開発でうまれたちいさな集落が独立した村として定着し、いまなお町名に残った。郷内屈指の古刹・榎下観護寺も、はやくにこの村の領域となっている。地蔵講の結束が、そのなかだちのひとつとなったのだろう。観護寺門前には、昭和にまつられた関東大震災の復興地蔵まである。いっぽう、おおもとの榎下郷は「榎下村」となのった残存部分もふくめ、多くは明治以降の新地名に改編されてしまった。


 釈迦堂トンネルの東にある、通称「小切通し」は、いかにも古そうな風化をみせる。唐糸地蔵窟と岩盤つづきだから、ふつうに考えればともに鎌倉末期、ということになる。ただどちらかが長く埋まっていたとしたら、風化の度合いもちがってくるだろうし、部分的には後世の変造ということもありうる。あらかじめ露出した岩盤は手がつけやすいのだ。

 南側の唐糸やぐらの前には近代の石垣がくまれ、いちぶには石切りの跡らしいぶぶんもある。裏側には一段低い位置に平場があって、その下段の切岸にもやぐらが切られている。近くにはふるい石垣もあるらしい。だが、釈迦堂トンネルの拡幅時期など、近世の歴史においてさえ、さだかではないという。いつかこのへんも開放されて、くわしく検証できるといいのだが。


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