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もちださんの鎌倉リポート No.17(2008年1月5日)



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網引地蔵やぐら


 鎌倉を代表する石仏は網引地蔵といって浄光明寺の堂の裏の崖のうえにある。正和二年(1313)建立、導師は当寺住職の性仙という浄土僧。かの唐僧・竺僊梵僊(レポ6参照)が「諱・導空、字・性仙、なお海東の律龍のごとき歟」とたたえ、「仙律師」とよんで悼んでいるので、律宗系の学問にもすぐれていた人らしい。

 「供養導師性仙長■(老?)
 正和二年十一月
 施主真覚
 大工宗■」
背面にこのような刻銘があるという。

 浄光明寺をたてた北条長時(1229-64)は、泰時没後に時頼らを支えた一門の大長老・重時(極楽寺開基・1198-1261)の息子である。その子・義宗(1253-77)は早世し、嫡孫の赤橋久時も6年前、徳治二年(1307)11月28日、36歳で病没した。したがってこの地蔵は久時七回忌の祥月命日に追善供養されたものなのだろう。

 正和三年(1313)当時、執権は北条熙時(?-1316)。二年前には執権師時(37)、得宗貞時(41)が死に、前年つぎの執権大仏宗宣(54)も急死した。得宗高時は3年後、熙時の死去をうけて14歳で執権となる。お気付きのように、鎌倉末期は有力者が次々に亡くなってゆく時期に当たっている。律令時代の貴族などに比べても、きわだって若死にしたひとが目立つ。

 久時の子で、高時得宗のもと、最後の執権となった赤橋守時はこのころまだ19歳。妹の登子はのち足利高氏(尊氏)にとついで義詮らをうんでいるが、この当時、尊氏は9歳。幼い尊氏がこの法事に参加したかどうかはわからないが、建武年間、滅亡した鎌倉幕府の跡地にやってきた尊氏は、まず妻の菩提寺であるこの寺に入っている。こころが折れた尊氏が一時出家しようとした「一束切り事件」の舞台でもある。そのとき尊氏はこの「岳父の地蔵」に詣で、武家の栄華のむなしさを身に染みて思ったかもしれない。それでなくても、尊氏は大の地蔵マニア、自筆の地蔵を日課のように描き残したことでもしられている。


阿弥陀堂のまわりにもやぐらはあるが、地蔵やぐらは一段上の平場にある。



円蓋とそれを支える貫(ぬき)を通したとみられる天井の彫り込み。壁面には漆喰を置くために丁寧に鑿(のみ)目をのこしてある。
 尊氏の生いたちにはなぞも多く、先祖の義兼はじつは為朝の子で子孫を狂わす霊になっていた、とつたえる(今川了俊「難太平記」)。1317年、13歳のときに祖父・家時が36歳で割腹自殺したなど支離滅裂な伝説も残る。さらに変なのは、その家時の妻は前執権師時の孫だという。だとすると祖母の祖父と尊氏とは30しか齢がはなれていない。そのほか、尊氏二男とつたえる宝戒寺普川国師が尊氏より年上であったり、系図にはどうも変なことがおおいのだ。

 地蔵にはかつて光背を挿したらしい切れ込みがあり、右手には別製の錫杖をもっていたらしい。また、やぐら天井部には天蓋を吊り下げたらしい溝がある。地蔵背面の奥壁には龕があり、伝説では地蔵は漁師の網にかかって引き上げられたものなので、龕には潮の満ち干にしたがって水が溜まったといっている。ここを水戸黄門が実際に訪れたときには、満ち干地蔵、満ち干の窟という名があったという(「鎌倉日記」1674)。

 鎌倉には「どこも苦地蔵」などすぐれた中世の木彫がいくつもある。ただ中世の石像としてほぼ確実な銘文をもち、完存しているものは広義の鎌倉のエリア内にたった4体しかないという。逗子の神武寺弥勒窟の石像(1290)は鶴岡八幡宮の楽人頭・中原光氏のためにつくられたもの。光明寺の地蔵(1325)もやぐらのなかにあり、一石づくりの九品寺の薬師(1296)は奈良などの石仏に似て柔和な表情をしている。その他は首がもげたり、泥岩製のために全身がとろけたりしているものばかりである。

 私が好きな仏像のひとつに、伝・定朝作の「鬘掛地蔵」(六波羅蜜寺)というのが京都にあるが、彫刻として完成された、そういう超一級の美術品とはべつの良さが、地方仏にはあると思う。網引地蔵の、青年僧をおもわせる妙になまなましい頭のかたちなどは、人間の殻を抜け出したなまみの姿であるかのようだ。作者は「大工」つまり仏師ではなく石工らしい。中世の仏像の特色として、遊戯坐といって少しくだけた宋風のすわりかたや煩雑で奔放な衣文などがあるが、それらは石像であるためか簡略化され、それほど目立たないものの、「つま先」のあたりは生き生きとしている。


右に副室がある。石塔などを納め、納骨室としてつくられたものだろう。



満干の窟の由来となった龕。為相卿がつくったなどの伝説があった。
 この地蔵やぐらの崖のさらに上には伝・為相墓という宝筐印塔がある。背後のやぐらとともに梶原の泣塔に類似し、だいたい同じころ(1350年代)のものらしい。赤橋守時は須崎で敗死(1333)し、たまたま残った人々も中先代などの戦乱で消えうせてしまったが、両者はこの一族郎党の供養塔なのかもしれない。

 さらに奥には、峰続きに多宝寺長老・覚賢の墓がある。いまは廃寺となったその寺はこの寺の開基長時の弟・業時(1247-87)がたてた兄弟寺院で、開山は忍性。覚賢が亡くなると奈良・元興寺小塔院から順忍という人が赴任して管主となり(1306)、かれはやがて極楽寺の三世となった(1315)。つまり極楽寺の別院でもあったようである。長時兄弟は父が建てた極楽寺の発展にもちからを注いでいた。弘長二年(1262)に叡尊(忍性の師)がまず鎌倉に入府したとき、最初に滞在した「釈迦堂」はちかくの新清涼寺(廃寺)だったといわれており、律宗とは地縁的なつながりもあった。

 浄光明寺が律寺になっていったのもこんな理由からであり、いまは覚園寺とおなじ真言宗泉涌寺派になっている。「北条九代記(二巻本)」によれば寺は多宝寺とともに延慶三年(1310)十一月の大火で焼失。けして燃えることのないこの石の地蔵が供養されたころには、まだ再建の槌音がひびいていただろう。

 赤橋というのは八幡宮正面の橋のことで、その前に屋敷があったためという。最後の執権になった守時は1333年5月18日、元弘の鎌倉合戦で須崎・千代塚の陣において玉砕、自ら命を絶った。いまわの言葉は「太平記」にのこっている。じぶんは足利家の姻戚であるゆえ、一歩でも退却すれば一族に疑惑を持たれるだろう、武士としてそんな恥辱に耐えてまで、しばしの命を引き伸ばす意味があるのか。39歳だった。


網引地蔵やぐらの上、伝・為相墓あたりから見た平場。八幡宮の近くとはおもえない静かさ。


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