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もちださんの鎌倉リポート No.170(2015年10月26日)



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神仏のたどった道・1


 10月12日は恩田薬師堂のおまつり。東急こどもの国線恩田駅のホームにも歌謡ショーのリハーサル音が午前中からせわしなく流れてくるし、むかしながらの幟や、半鐘をつるした田舎消防団の鉄塔もみえる。これはかつて村の講が町内会館として薬師堂を活用していたなごり。

 堂では院派の仏像(平安末)が御開帳になる。季節柄、境内のムクロジの実もいっぱいおちているし、近辺の柿の実ももはや出荷されず、生るがままになっている。堂のうしろの山腹にも家並みがあるのは、中世からの古道がとおっているから。

 現在の堂ははすむかいにある徳恩寺が兼務している。ひとむかし前まで、「徳恩寺は なぞの幼稚園」として珍百景でも有名になったが、いまはその幼稚園もない。裏の墓地からの谷戸のながめがすばらしい、それだけ。



中央赤い屋根が薬師堂
 徳恩寺はもはやほとんど近世寺院で、中世の記録はのこっていない。寺宝のひとつに、原爆の火、というのが山門うら、灯籠内のランタンにともっている。かつて国連と米民主党が広島に落としたもので、先代の住職がわけてもらってきたという。

 この徳恩寺は柿生の柿を発見1370し、新田義貞に焼かれた王禅寺を中興した称名寺僧・等海律師(?-1373)の創建1335とされ、その供養塔もある。鎌倉幕府の滅亡に関しては、この谷戸のむこうがわ、田奈高校の下あたりに、いまはなき「霊鷲山松柏万年禅寺」があって、現存するその鐘1325についてはレポ79号でふれた。大檀那の「菩薩戒弟子広鑑」は同時期の高時の出家号「崇鑑」ににていて、たぶん得宗家ゆかりの寺だった。元弘合戦以降荒廃し、称名寺では寺領回復のため若き等海を派遣、称名寺から移した延命院という草庵を元手として別の寺として建てたのがいまの徳恩寺、ということになるのだろう。

 醍醐寺三宝院流の伝法血脈によれば、等海には恩田延命院の注記があり、弟子の鎮海に「王禅寺花蔵院」としるされているから、生前の本拠はこちらにあったと思われる。そして「鷲の山絶へぬ御法は万年寺 仏の御恩頼もしきかな」。この観音ご詠歌がよまれた江戸時代までは、万年寺も子院として細々とつづいていた。 


 薬師堂の本尊は表面をてかてかに塗ってしまったために現状では古美術価値があいまいになっているが、顔や体躯がペーパー・ムーンのように薄くて円満、それでいて指やつま先なんかが童女のように華奢、いわゆる定朝様(院派)のながれを示す。ダリの絵で、象の足を蚊のように細くして無重力感を表現したものがあるけれど、ボリュームをかんじさせず、ぽっかり浮んだ月のようにみせる院派独特のデフォルメだ。

 より厳密にいえば、専門家は院派の分流で平安後期、京都三条仏所をひきいた円勢一派のものと推定しているようだ。「風土記稿」には行基作とする。

 この像がどこから来たのかは不明だが、万年寺の鐘銘には行基の草創とあるから、一時は万年寺にあった可能性もある。歴史的に見て、奈良から律僧の手によってはこばれ、いったん極楽寺か金沢称名寺をへて薬師堂、というルートもかんがえられよう。



万年寺鐘銘(行基草創と広鑑らの造鐘が書かれた部分)
 薬師堂の縁起ははっきりしない。「風土記稿」は徳恩寺末医王寺とし、開山の印興は戦国時代の人(1506寂)とつたえる。十二神将は江戸期のもの1714。境内の石塔には「寛文十一年(*1671)当寺中興・大僧都尊継の菩提の為なり」云々と刻まれた板碑型がある。

 ここのお祭りはおもに地元向けで、徳恩寺の掲示板などに貼り出されるが、ことしは体育の日にあたり、護摩供養が1時から、歌謡ショーは5時から。仏像が見たい方は準備中にいけば外からでもおがめるし、帳(とばり)がかかった後ならば講中の方に頼んで近くへあげてもらってもいい。このへんはまだ農家もおおいせいか、けっこうわかい人もお囃子なんかで陽気に参加している。

 また武相寅年薬師霊場というのが12年にいちど、寅の年にある。長期の開帳があって余裕を持ってゆっくり参詣できるし、そこでは巡礼が主役なのでリーフレットやお茶菓子などの接待もいただける。境内のムクロジの種は羽根突きの玉や数珠の材料としてもしられる。生の果実はよく乾かすとゴムっぽくなって剥きやすい。


 線路沿いにながれる奈良川は、やはり中世の村落にみられる滑川クラスの小川だ。近代になって上流の「こどもの国」あたりが軍の弾薬庫となり、東急の整備基地などができたから、谷戸の道もひらけてきた。ふるくは古道が中腹を通り、下はおもに田だったのだろう。堂のわきをとおるささやかな支流には、橋はあるけど水がない。

 たんぼは下流の中恩田・田奈(下恩田)地区にはまだ多くのこっている。JA田奈もりっぱだし、だいぶ羽振りのいいかたもいらっしゃるようだ。目黒のさんまじゃないけれど、このあたりの方から、いぜん「小鯛の笹漬け・昆布〆セット」を大量にいただいたことがある。戦国時代の「小田原役帳」にも、高い石高がしるされているという。

 中世後期の恩田氏は鶴見川最大の支流、恩田川にちかい堀の内というところにいて、禅秀の乱で恩田美作守が討たれる1419までさかえたという。「分倍河防事・・・恩田鴨志田所課分・・・于今無沙汰候之条、何様事候哉」との督促状がのこっているので、13世紀末・鎌倉時代後期には御家人として、かつて鴨志田氏がいたあたりまで勢力をひろげていたようだ。


 徳恩寺の前をひだりにはいった谷戸を鍛冶谷という。南側は「あかね台」という造成地だが北斜面はまだ山でヤギなんかがつながれているところもある。首都圏の、わずかにのこった里山で「ブルーベリー・ファーム」とか「乗馬体験クラブ」なんかをやっている好事家が、このへんにもいるのだろう。自然との共生なんて、できるうちにやっておかなければすぐに巨大な開発にのまれてしまう。

 子ノ辺神社というところのご神体は「石棒」。これは縄文時代から信仰されている、いわゆる「ちんこ石」で、町田市の田端遺跡にはストーン・サークルがあるし、小山田の資料館には焼き砕かれた巨大な石棒を復元して展示してある。これがいつしか再発見され、石神信仰に変質していったらしい。本殿の中をのぞくとひだりの宝殿厨子のあたりに石棒の模型? のようなものが、ぼんやりとみえる。鴨志田の甲神社や奈良川上流の松岳院内にも、同種の石棒がまつられているという。

 中世にも「卯杖(しゃもじの長いもの)」なんていうおまじないが「とはずがたり」にみられるが、田舎ではいまもリアルな陽物(男根)をハリボテに作ってひきまわす地方がある。ヨーロッパなんかでも、聖なんとかの棒状のパンで女のしりを叩く安産の行事がのこっていたりする。


 現在の県境をこえて町田市成瀬の奈良谷戸におりるには峰筋にあがってゆかなければならない。きつい峠をようやくくだると成瀬杉山神社と東雲寺がならんでいる。東雲寺には白鳳の誕生仏があり、ちいさな夢殿のような堂におさまっている。二重ガラスが反射するうえに現物もひどくちいさい。寺のHPによれば、火災にあってただれてもいるらしい。寺は後北条氏の小机城関連だから、たとえば秀吉に焼かれた開山和尚の遺品だったと推測しても、伝来がたどれるのはせいぜい戦国時代。この仏もべつのどこかから来たのだろう。

 境内の恵比寿社をのぞくと、ほこらのなかにはさびた鏡のようなものがみえた。なにやら文字のようなものも。神体の鏡には神仏分離以前のふるいものだと、表面に種子を書いたり本地の仏像をさざんだ懸仏という種類のものになっているばあいがある。

 風入れで公開される円覚寺の秘宝に「円鑑」というのがあって、ちいさなペンライトでてらしてみると、鏡の中に大覚禅師の化身である「団扇をもった観音像」が、金色の染みのようにぼんやりとうかびあがったのを思い出す。・・・それは水戸黄門も「鎌倉日記」にスケッチしているから、もうだいぶふるくからの不思議らしい。


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