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もちださんの鎌倉リポート No.171(2015年10月31日)



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神仏のたどった道・2


 護摩供養や歌謡ショーをまつのもなんなので、べつの古道へ移動。新羽新道というのは新横浜の北にあり、新道とはいいながらむかしながらの名前らしい。ここは聖護院門跡道興准后(1430-1527)が「廻国雑記」に、江戸から鎌倉へむかう道として記述している1486。

○秋の日浅草を立ちて、新羽といへる所に赴き侍るとて・・・駒林といへる所に到りて宿を借り侍る・・・新羽を立ちて鎌倉に至る道すがら、様々の名所ども、委しく記すに及び侍らず。・・・

 駒林(*日吉本町)とは、都筑党の項で触れた金蔵寺のあるところ。鎌倉街道下つ道は綱島街道ルートという説もあり、聖護院とかかわりふかい師岡熊野神社もあるのだが、それだと鶴見川の対岸になる新羽はとおらない。道興はその後、帷子(保土ヶ谷宿)をへて餅井坂(上大岡)、離れ山ルートで鎌倉にはいった。


 新羽の古刹・西方寺は曼珠沙華の名所。ただ時期ハズレだったので本堂もしまっていて、ちょっと残念。ここはもともと醍醐寺勝賢の開山1190で、補陀洛山安養院西方寺といって【鎌倉の笹目にあった】という。鎌倉では大町に再興された安養院の前身として、笹目の祇園山安養院長楽寺(北条政子晩年の御願・1225創建)が想定されており、開山は願行上人(律宗)、または法然のでし隆観(*京都長楽寺の訛伝か)といっている。

こちらの異伝ではすこしちがっていて、西方寺はやがて極楽寺にうつり、桜橋のてまえ、切り通しふきんの塔頭となった。いまも上杉憲方(道合1335-1394)の逆修塔や多層塔などがある場所。それが明応年間(1492?)に上杉領となっていたいまの新羽にうつり、鳥山三会寺の末となって今に至る、とされているのだ。笹目安養院が廃絶後、ふたつに分裂したわけだが、全くのいいつたえでもない証拠に、ここにも定朝様式の黒阿弥陀や奈良時代の経典(重要文化財)など、おそらくは忍性一派にかかわる「奈良ルート」の文物がつたわっている。

 それにしても、道興准后は新羽へなにしにきたのか。荘園関係の所当(年貢の取り分)がこの地域にもまだ、のこっていたのだろうか。光明寺、蓮華寺、専念寺(写真1)など、周辺寺院をたずねてはみたが、けっきょくよくわからなかった。



二重堤防が設けられた遊水地区
 専念寺の山号は亀甲山といっている。亀甲(かめのこ)橋のちかくの碑によれば、近代に山すそを多少切り通しているらしいが、このへんの丘一帯が太田道灌の小机攻め1478の本陣だった。亀甲橋とは、横浜国際競技場裏の、鶴見川にかかる橋のこと。東流していた鶴見川は、ここで一転北流して水害をひきおこす。ここからみる小机城(写真奥)は、いまも洪水時の遊水指定地区にかこまれた要害であることがわかる。古道はこの湿地帯を渡河して古刹・鳥山三会寺の南へぬけた。

 むかし女教師に連れられて、なんかの賞金をとりにこのへんを歩いたときには、たしか田畑のなかの一本みちだったように記憶している。小机駅ちかくにいったん赤いシビックを停めたのは、当時一般車両通行禁止の農道だったからかもしれない。水害は中世にも多くの荒蕪地を生んでいたらしく、鎌倉時代に幕府は佐々木泰綱に命じて再開拓をおこなっている1239。ここは中巌円月和尚が幼時をすごしたばしょでもあった。

○正安二年庚子(*1300)。正月初六日、晡時(*ひぐれどき)に予、生まる。小名、吉祥。是歳二月、父、敗に坐す。乳母、予を抱え武州鳥山に皈る。・・・ 
嘉元三年乙巳。予六歳。外祖父、予を名越に迎ふるも、病ふを以って鳥山に帰る。・・・
徳治二年丁未。予八歳。春、祖母、予を亀谷に迎へ、寿福に送り入る。・・・
(自歴譜)


 三会寺の南、現在のバス通りからみると奥の山際になるが、鎮守の鳥山八幡宮がある。頼朝の時代、泰綱の大叔父・佐々木高綱が創建1192したという鳥山三会寺はもともとこのへんにあり、城郷小学校にちかい北西の谷戸あたりに高綱の屋敷があったという。目代・六角太郎、鳥山左衛門、舎人・猿山庄司などがつかえていた、とつたえる。

 その後、三会寺はあの等海律師が旧道の北、現在地に再興1356したと伝え、伝法血脈には弟子の義空に「鳥山楊柳院」の注記がある。ただ古記録にとぼしく、印融法印が戦国時代、さらに中興してから本格的な歴史がはじまっている。宋風の本尊は秘仏。寺号は弥勒の説教にゆらいする龍華三会だから、ふるくからの会下寺(学問所)だった。

 弘法大師の再来とうたわれた印融法印(1435-1519)は高野山でまなぶほか、三会寺・賢継に醍醐三宝院流を伝授されたという1460。その後、蒔田堀ノ内の古刹・宝生寺で覚日から仁和寺西院流を受けた。真言密教の伝法灌頂、いわゆる野・沢二大流派を関東において修めたことになる。この宝生寺(横浜市南区)は平安末期からの密教寺院で、覚尊という僧が中興1409、興隆をきわめたらしい。中世の文物をおおくつたえ、とくに「横浜」の地名をつたえる現存最古の古文書や、鎌倉覚園寺から移した鎌倉後期の大日如来像なんかが注目される。



歩きつかれてむくんでしまった足(三会寺)
 称名寺僧による伝法は、ららぽーと近く、中原街道ぞいの佐江戸無量寺(無量寿福寺)でも鎌倉時代からおこなわれており、この地域に寺領を扶植するうえでも、権威ある伝法血脈はかかせなかったものと思われる。

 高綱伝説は、八幡宮の小高い裏山のむこうに点在する勝軍地蔵(高綱持仏)とか馬頭観音(名馬池月の墓)など、祠にまつわるとりとめもない口碑にのこるばかりだが、一族が小机郷鳥山の開拓者であった史実は、「吾妻鏡」や二巻本「北条九代記(鎌倉年代記)」などに明記されていてたしかなようだ。泰綱の母方に小机をなのる秩父党の武士がいたことなど、このへんの事情はレポ78にのべておいた。

 醍醐三宝院は修験道の真言系当山派の本山にあたる。道興准后の聖護院は熊野信仰をもととする天台系本山派の中心であったから、駒林の金蔵寺(天台宗)などはともかく、新羽以南はアウェー。もちろん摂家出身の僧なので、称名寺をはじめ他宗の寺に参拝することじたい不自然ではないのだが、道興の新羽入りは太田道灌謀殺(7.26)直後のことでもあり、地政学的な、なんらかの駆け引きがあったのかも。


 熊野信仰といえば鳥山から南へくだった上菅田に、熊野堂という寺がある。これは三会寺に「中興・逆修」ときざんだ、ひときわおおきな墓がある同寺第二十八世・天循和尚が村人を勧進し、江戸時代に創建した。

 鳥山八幡宮の裏山は結構な急坂で、斜面にはまだ住宅も密集しているが、頂上付近の峰筋にはまだ畑も農道ものこっていた。新横浜からむかう大通りならバスもあるし、ほとんど上り下りもない。そのかわり、風情もない。熊野堂は最勝寺という小堂を中心に、みぎに熊野神社、ひだりの山に富士塚1808。畑をへだてて墓地があるが、たぶん富士講(丸金講)をまもる堂守さんの畑なのだろう。

 ここの富士塚は一之嶽(一合目)から頂上までの急峻な坂道に、各地の講が寄進した石碑や石仏、祠などが散在する登山道型で、下部の自然地形をあわせれば市内最大級の規模。なぜ熊野が富士浅間信仰にすりかわってしまったのかは、なぞだ。


 急斜面に階段はなく、鉄パイプを組んだ仮設の手すりが消えかかった順路をかろうじてしめすばかりだ。石碑には天照、熊野、伊豆、白山、山王、鹿島、三島、箱根、諏訪などのほか、題目、不動、小御嶽石尊祠、筆子碑、丸金講先達碑、身禄神像祠など、バラエティに富んでいる。

 近世にはすでに、寺領獲得の時代ではなくなってきた。神仏にテリトリーはなくなって、秘伝の法脈よりもなんでもあり、の民間信仰のほうが重要になった。富士を詠んだ筆子碑(浅間碑)は「前左学頭天循」、すなわち天循和尚に手習いを学んだ42名の村人達の記念碑。現在は中腹にたつが文化五年、すなわち富士塚創建当初の記銘がある。

 十合目の大日如来の写真をとっていると、むかいの斜面のこずえに五郎丸選手のルーティンをまねているようなばかの影がうつっている。三歩さがって左へ二歩・・・って、おれか。早起きしてラグビーW杯最終戦をみて家を出てから、もうだいぶ日がかたむいてしまったようだ。


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