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もちださんの鎌倉リポート No.173(2015年11月10日)



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江ノ島童子・1


 江ノ島神社には現在、辺津宮・中津宮・奥津宮に宗像三女神が祭られるが、ふるくは別当寺をもち、龍神と弁才天が主祭神とされていた。縁起では人を惑わす悪い龍(大蛇・ヲロチ神)に弁才天が妻となり、のちは夫婦ともに護法善神として、ここに鎮座したという。

 この名残りとしていまでも裸弁天でおなじみの弁天堂(奉安殿)があり、かつて龍穴とか岩屋本宮とよばれた岩屋や、龍宮(わだつみのみや)社というのも造られている。ただ近代の神仏分離により、インド由来の神である弁天夫婦の名は公式には神道風にあらためられ、別当坊の巌本院はいくつかの宝物をつたえたまま、老舗旅館「岩本楼」となっている。


 ふるい信仰を伝える中世の謡曲「江島」は、上記の縁起を歌っている。「江島竜神」では北条義時(時政とも)に龍神夫婦が子孫繁栄の三ツ鱗の紋を授ける。「江島童子」は弁天の眷属・十五童子がうたわれるもので、童子は瑞心門内の巨大レリーフ(写真)にも彫られているし、宝物館をかねた奉安殿にもまつられている。

 神と仏が混交した信仰は、【両部神道】とよばれるものだ。すべてに仏が宿っているというのが胎蔵界、仏が様々な神に変化して実践するのが金剛界。ふたつあわせて両部といっている。

 島に渡る橋にたつ燈籠は「龍燈」となづけられているが、ほんらいの龍燈とは海上に龍が点すとされる、ふしぎな灯火のこと。これは厳島神社など、龍神信仰のあるところにはつきもので、「厳島」など、江島いがいの謡曲にもでてくる。興福寺の国宝、天燈鬼・龍燈鬼(鎌倉時代)も仏教眷属の邪鬼と龍との混同がみられ、たぶんありがたい法灯として理解されていたことをしめす。


 龍穴信仰は飛鳥の岡寺(龍蓋寺)や室生寺周辺にもみられ、雑部密教の時代には確実に存在していた。風水でも最高のパワー‐スポットとみなされたらしい。江の島縁起には開山・中興を役行者、泰澄、道智、弘法大師、慈覚大師円仁、安然、慈悲上人良真などと羅列しているが、開祖に魔術的な修験の行者をおいていることは注意してよいだろう。

 奉安殿にある鎌倉時代の作、八臂弁財天像の頭上には化身として宇賀神という、蛇体の神がとりつけられている。この蛇神は、老人や女神の顔をもつことがあり、神道で宇迦之御魂といわれる豊饒・財宝の神であるとともに、インドの蛇神ナーガは仏典では龍王と訳される。すなわち弁才天と龍神とは夫婦というより、同一視されてもいたのだ。龍王は雨乞いにも験のある豊饒の神。それゆえ日本固有の信仰として、弁才天は財宝をもたらす福徳弁財天とも仰がれるようになっていった。

 龍女をイメージしたともいう裸弁天(妙音弁才天)は中津宮付近にあった不老門内に愛染明王像とともに安置されていた、という。この門は1861復興ののち、廃仏によって時を経ずしてとりこわされたようだ。むかしは三重塔などもたっていたらしい。


 実朝が慈悲上人を大陸に遣わしたさいきざませたという、「宋国伝来の碑(屏風石)」は辺津宮のひだりにある。風化がはげしく、上部にある「大日本国江島霊迹建寺之碑」という篆書の表題と龍のうきぼりだけが、目を凝らせばかろうじて、みえるていどだ。水戸黄門の時代1674にはもうボロボロの古碑になっていて、元禄十四年に石屋根がかけられて以来あまり変化はないようだから、中世以前というのはたしからしい。

 似たデザインのものは頼朝墓のうしろにある伝大江広元墓のかたわらにたつ、「故蔵人従五位下大江公碑」(写真下部)などにうかがえる。下部には碑の本文があり、台座には別石で亀趺という亀の像をきざむが、これが正統的な唐風の碑の様式だった(レポ62参照)。この亀は龍の子で名を贔屓という。好んで持ち上げる、というニュアンスから「あの店を贔屓にする」なんて誉め言葉になったのは周知の通り。もし江ノ島の亀趺が現存していれば日本最古級のものだったかもしれない。


 江ノ島の入り口にある銅鳥居1821には多くの寄進者のなまえが刻まれる。風車の親分をおもわせる弥七、なんて名前や、女のひとには「るゐ」なんてモダンな名前もみえる。江戸時代らしく「新吉原」のコーナーもあり、松葉屋など全盛をほこった妓楼の親父や花魁(おいらん)の寄付もあったことがわかる。

 「江島大明神」の額は、奉安殿にオリジナルとされる木製のものがのこっていて、蒙古退治の祈願として後宇多院の宸筆とつたえる。鳩をモチーフとした八幡宮の額と同様、蛇のようなものがデザインされているらしい。


 辺津宮のわきを降りるか、児玉神社のまえの石段をのぼるかして、とちゅうで狭い路地におれてゆくと、海ぞいの集落へつづく。このへんが民家の多い地区で、民宿とか魚屋・釣り具店のたぐいがほつぽつならぶ通りに出る。

 奉安殿にある縄文早期の土器は植物園ふきんからでたもので、島にはふるくからひとびとの営みがあった。江戸時代にはこの東海岸におおくの漁民が住んでいた。

 観光向けの表参道の喧噪にくらべればぐっとしずかなたたずまい。昭和の東京オリンピックのさいに沖合いまでうめたてられ、かつて海中にあった小さな岩礁の一部が、いまは埋立地のなかに祠とともにのこっていたりする。江ノ島の浜地は現在、岩本楼の裏あたりにわずかにのこるばかり。東海岸には大規模なヨットハーバーがつくられたために、海岸線はだいぶむこうへ遠のいてしまった。


 江ノ島で唯一、寺をなのる延命寺は頑丈なコンクリート造りの洞窟寺院。内部は閻魔様と近代の納骨室があるだけだが、別にいくつかの石仏もまつってある。とくに古いものはなく、せいぜい江戸期のもの。
 
 いまでこそ内陸部のようだが、いぜんは浜地の集落。明治以降、神域から追放された墓石や石仏がこの付近にあつめられたものの、何度か土石流によって海中にながされた。いまはかろうじて残ったものがまつられているだけだという。委細は無縁塔の碑銘などに刻まれているが、これも廃仏による人災といっていいのかもしれない。


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