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もちださんの鎌倉リポート No.175(2015年11月18日)



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江ノ島童子・3


 弁天いぜんの江ノ島の信仰はよくわかっていない。「梅花無尽蔵」にいう日本三大弁天のひとつ琵琶湖竹生島では、浅井姫、という地主神の本地として弁才天がはいってきたという。

 また安芸の宮島では、すでに平安初頭に宗像三女神の伊都岐島姫がまつられていた。この神は「市姫」との音通から市の神、商業神として普遍的な上位神となり、太古から同島の磐座にまつられてきた無名の在来神を圧倒・駆逐したとおもわれる。ただ弁財天にはだれもがあこがれる「財宝神」「福徳神」としての、さらに高い普遍性、優位性があった。


 弁天が登場する「最勝王経」は、四天王などが説かれる鎮護国家の経典。宮中の御斎会はもとより各地の寺の修正会などで必ずもちいられた。さいしょは吉祥天の眷属として主に武器をもっていたことが「別尊雑記」にみられるが、鎌倉時代には同経の異本外伝として弁天五部経も編纂され、十五童子や大黒天、夫ともされる毘沙門天、白蛇宇賀神らをしたがえ、宝珠・宝鑰をもつ国風の信仰へと、急速に変貌していった。琵琶を持つ妙音弁才天は「大日経」にゆらいする妙音天がとりいれられたらしい。

 龍神は女人往生にもかかわりをもち、クマラジーヴァ訳「法華経」提婆品に龍女成仏が説かれる。この章は他の訳にはないもので、訳者の生れたシルクロードで加上された偽経ともいわれる。江ノ島の龍宮社は海中の鱗の宮にすむワダツミの神(海神)をまつるが、これは山幸彦が干珠・満珠をさずかった記紀神話にもとづくもので、のちに神功皇后が住吉のお告げにより、安曇磯良に託し同じ珠をかりた龍宮の伝説(太平記)とおなじものとみなしている。


 ふるい時代の航海神には、住吉三神などがしられる。これは「筒ノ男」といって、「つつ」とは古語で星のことだから、外洋航海のしるべとなるオリオンの三ツ星という説が有力。これは黄泉の国をたずねたイザナギのミコトの禊によって生れたもので、ワダツミ神も同時に生れたという。黄泉の国は外国を暗示し、住吉はもともと博多の津にまつられていたともいう。

 宗像三神は農耕と対立したスサノヲの、贖いの剣からうまれた。スサノヲは黄泉(三韓)や出雲をさすらい、悪い大蛇を退治して地方を興した。大蛇を田舎神とかんがえれば、これも中央による地方の征服であり、前々回にのべたように、悪い龍をしたがえ嫁入りした、弁才天の神話とおなじである。これが古代王権の成立いじょうの意味をもつとすれば、中世における征服者とはヤマト朝廷のような軍事勢力などではなくて、弁財天の象徴する富、すなわち【銭】であったということだ。


 江戸時代の上下社はいま「中津宮」「辺津宮」の額があがっているが、もとは「弁才天」「大弁才天」とかかれていた。さきにのべた「江島大明神」のほうは、かつての本宮旅所(現・「奥津宮」)に掲げられたという。神体は上下社とも八臂弁才天に蛇形石で、脇座に併祀する春日明神などの神像、三面大黒天とか実朝像なんかもあったらしい。いま奉安殿にのこる八臂弁天はどちらかにあったものなのだろう。神体には懸け仏のような金銅製のものもあったようだ。

 そのほか護摩堂、開山堂、観音堂、稲荷などの鎮守社もあったが、現在の宗像三女神ないし固有の地主神の信仰がふるくからあったという形跡は、「縁起」「風土記稿」などの古記録からはほとんどうかがえない。むしろ明治に撤去した両部修験の寺院(与願寺)としてのおもかげのほうが、はるかに強かった。両部の神社では、伊勢・熊野・春日などさまざまな神を権現として他所から勧請するが、もともとあった地主神などはすっかり忘れ去られている場合が多いのだ。

 竹生島には宝巌寺、宮島には大願寺など弁天像を保存する寺院が、分離後も付属して存在してきたが、江ノ島のは「文明開化」の波にあらわれ、はやくに旅館となってしまった。


 三重塔はかつて瑞心門のみぎ、赤い橋のうえにあった。ちかくに墓のある鍼術の祖・杉山検校和一(1610-1694)の創建という。ツボに管をあてがい安全に刺す方式を発明し大ヒット、徳川将軍綱吉につかえ、盲僧集団の頂点にのぼった。

 島内にある児玉神社は、大正時代に後藤新平らが軍神・児玉源太郎をまつる祠を正式な神社として建立したもの。原宿の東郷神社とか赤坂・乃木神社のたぐいだ。203高地の石だとか、児玉をしたう台湾のひとびとから寄付された鳥居とか扁額(李登輝書)など、親中派マスコミを刺激する、やばいものもいくつかある。

 すみのほうに「咸臨丸図面発見の地」という碑。図面はロッテルダムで発見1968されたから、ほんらいオランダにおくるはずの碑だったのだろう。なんの手違いかここにきてしまった理由は謎。咸臨丸はもともと同国製で勝海舟や福沢諭吉をのせ、はるかアメリカまで太平洋をわたった。


 伝説の紀文大尽はあらしのなか、上方の安い蜜柑を江戸に運んで莫大な利ざやを稼いだ、といわれる。真偽はともかくも、金融相場の中心に海運があったことはまちがいない。いまでは海運も発展し、ちいさな湊などはほぼ素通りされ、地図からも消えてしまう。わずか数隻の船に、国中の米や絹糸・銭を買い占められてたちまち暴動になってしまう・・・そんな吹けば飛ぶようなオンボロ国家を、無我夢中で侵略した時代もあった。

 海のかなたに龍宮を空想し、金銀財宝・酒池肉林を思い描いた時代もあった。海のかなたでもおなじように、わが国を不老長寿の蓬莱島とか礼節の姫氏国、黄金の国ジバングなどとかんがえたひとがいた。もちろんこれは商業というもののトリックにすぎない。銭になるはなしはどんなおめでたい途上国にもころがっている。これを現実ととりちがえる者もいるが、黄金郷なんてかつてはどこにでもあったのだ。


 有料エレベーターとしてしられる江ノ島エスカー。江の電で鎌倉に出るよりも微妙に高いかかく設定に足がすくむが、お年寄りや時間のない観光客には重宝されている。富士見亭・見晴亭から岩屋にくだる急な階段をおりて、帰りは渡し舟がりようできる。

 島にわたる橋には車道と歩道がある。左端にみえるのはアイランドスパ(温泉&プール)。歩道は鎌倉方面がみえる側とは反対側をとおり、渡し舟もまた島の西をめぐっている(写真5)。かつては橋もなく引き潮のさいに砂州をわたっていた。フランスの世界遺産・モン‐サンミシェルでは干潟の復元がこころみられているらしいが、レジャー‐ランド化がすすむ江ノ島の砂州の復元予定はないようだ。


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