トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第179号 


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もちださんの鎌倉リポート No.179(2015年12月3日)



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東京・町田市にて
 日本の在来馬は道産子とか木曽馬が知られているが、明治以降、実用的な輓馬などとの、多少の混血もあるようだ。早くから半野生化した野間馬、御崎馬、トカラ馬などが希少視されている。

 馬の原種には草原馬、森林馬、高原馬などがあって、野生種はほぼ絶滅。プルツェワルスキー(Przhevalsky蒙古野馬)や絶滅したターパンの写真などからすると、在来馬とおなじようなポニーであったらしい。もっとも中世の人間も、150cm台がふつうだった。時速にしてもサラブレットが60km/h台だとすれば40km/h台とやや遅い程度で、中世の道路事情をかんがえれば、けしておそいともいえない。デリケートな高級馬よりは、温和で丈夫な在来種のほうがはるかに実用的だったともいえよう。


 はやく走らせるには軽いほうが有利。流鏑馬なんかのばあい、鎧をきこんだ重たい男性だと駆歩ていど、逆にかるい女の子だと馬もギャロップぎみに土ぼこりを上げて走り抜ける。10月の町田時代まつりの流鏑馬はいっぱんの公園でおこなわれ、八幡宮の流鏑馬馬場のように特に砂などは敷かれない。

 下の写真はスピードにのる馬場末ちかい的で、しかも毎年ふえる満員の観客の頭越しのめくら撮りになってしまった。反応のにぶいデジカメだと、タイミングをとるのもむずかしい。前回(レポ97)とちがって「ひき」でとったのでシャッター速度が速く、空中で矢が止まってみえている。これもちっちゃい安物カメラの妙。

 ちなみにこの子は毎年母娘で出演していて、「悠ちゃん親子」といえば、ここではすっかり有名人。ともに決勝に残るなど、かなりのうでまえ。この流鏑馬会のアイドルらしく、三回とも、ひときわおおきな歓声をあびていた。



当りと残念
 絵巻物なんかで、牛は不自然なまで巨大に描かれることもあるが、人と馬のプロポーションはだいたいこのていど。荒馬をのりこなす「随身絵巻」もそうだし、古今の名馬をえがいた浮世絵の名人・北尾重政の「高麗獄(こまのひとや・1802刊)」という錦絵図鑑でもおなじ。くわしくは画像検索などでごらんいただきたい。同書所載の伝説的名馬(所有者)をあげると、

驄龍(多田満仲)、赤兎馬(関羽)、源太黒(源義家)、白浪(畠山重忠)、白兎(細川清氏)、騅(項羽)、飛蹄子(朝比奈義秀)、汗血(漢武帝)、的驢(劉備)、南鐐(平宗盛)、照夜白(玄宗)、鬼鹿毛(小栗判官)、生唼(佐々木高綱)、磨墨(梶原景季)、紫叱撥(鮑生)、大内白(源仲国)、大夫黒(義経)・・・。

 在来種は比較的温和で、知らない人にちかづいてもあまりこわがらない。こういうお祭りには向いているし、なにより丈夫でむかしの馬にちかいのだ。首をさげて草を食んでいるところなんかはシャガールの絵の中の野生馬のような表情をみせる。


 もっともほんものの蒙古野馬は神経質で、シマウマなどと同様、ひとになつくことはないらしい。小栗判官の鬼鹿毛なんかは人を噛み殺し屋根に駆け登るなど凶暴な面をみせているが、これは物語のなかの話。いったい品種改良はどのようにおこなわれたのだろうか。

 元寇の元軍にも馬の話は出てこないし、秀吉の朝鮮征伐においても、白村江の合戦にも、馬の話題はなかった。半島では高麗を支配したモンゴル帝国が牧をおいたとされ、耽羅という島に済州馬を飼った、とされるが、牧畜文化などはほとんどつたわっていない。朝鮮に「良馬なし」とは諸書に一致するところで、むしろ加藤清正が朝鮮軍を蹂躙し、あっというまに半島を縦断したところに、日本の軍馬の優位な機動力がうかがえる。


 中国大陸では労働馬として驢馬が愛用されてきた。兵馬俑の馬もちいさく、秦帝国をうちたてたチベット系支配者のあいだでは、乗馬よりも数頭にひかせる古代オリエント的な馬車がふつうだったようだ。日本に驢馬や戦車の文化はない。北方ユーラシアの騎馬文化は中国大陸や半島を素通りし、日本で独自の発展をみせたのだろうか。

 古墳時代の埴輪や馬具には、尻に旗ざおをたてたり、金属の重い馬面や鎧をきせ、鈴やスパンコール(杏葉)をつけたり、といった大陸の風習(飾り馬)のなごりのようなものもみられるが、これは奉納の神馬装飾をのぞいてすぐにすたれてしまった。もちろん革や布・木材なんかでできたものは土中にはのこらないので、非日用的な副葬品だけでは単純にひかくできない。

 馬具は基本的に@轡(くつわ・銜)と頭絡・手綱、A鞍と安定具の腹帯、胸懸・尻懸、B足をかける鐙(あぶみ)と鐙革などからなる。それぞれハンドル、サドル、ペダルに相当する。むかしの実用馬はひづめが日常的に硬化していたため、馬草鞋ていどの装備でたりたらしい。


 町田流鏑馬がおこなわれる芹ヶ谷公園からしばらくいった成瀬街道ちかくの尾根沿いに、高ヶ坂(こうがさか)遺跡がある。縄文時代の石敷き住居跡が覆い屋に保存されているのだが、ふきんの谷戸を「籠場(ろうば)」といった。これは各地に数多く点在する地名で、「牢場」とも書き、むかしの牢獄だとか籠細工の集落だとかいう伝承もあるが、それにしては数が多すぎ、牛馬を飼った場所とみるのが有力。いぜん触れた「北門(ぼっかど)」というのも、牧戸にゆらいするらしい。

 武蔵は大規模な官牧が多数存在した地域で、鎌倉時代に官営制度が崩壊、各地に散開していったとみられる。一定期間、自然交配などの目的で放牧させており、「放れ駒」は恋に絡めた和歌にも詠まれた。

 頼朝屋敷や公方屋敷の跡は江戸時代、耕作を避けて芝地になっていた。「放ち飼ひ駒、所得がほなり」(宗牧「東国紀行」)。八幡宮の流鏑馬も、もとはそこでかっていた農耕馬をもちい、池に的を立て、村人によってほんのまねごとのように演じられたじきがあったという。


 騎馬民族説をとなえた江上波夫さん(1906-2002)は、横浜市の北八朔というところにおすまいだった。仮説の大枠そのものはたんなる空想ロマンにすぎなかったけれど、専門の北方アジア史や乗馬文化にあらためて歴史ファンの興味を向けたことは、功績だったとされる。満蒙侵略運動を正当化づけるために、ユーラシア地域の研究は戦時中たけなわとなり、戦後は一転タブー視されていたからだ。

 北八朔は「倭名抄」に針折(罰佐久)とよばれいてた古い郷。ここも「馬柵」であったかもしれない。氏が武蔵野の郷土史に興味をいだいていたかどうかは知らない。本業の北方アジア史の資料は日本大通りちかくの「横浜ユーラシア文化館」に寄贈されている。また「馬の博物館」は、根岸のドルフィンがある坂をのぼったあたりにある。


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