トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第18号 


▲もちださんトップへ戻る

もちださんの鎌倉リポート No.18(2008年1月11日)



No.17
No.19



もうひとつの稲村ヶ崎・1



稲村ヶ崎と霊山崎はもともと二つでひとつの山。「稲村道」はこのあいだを通っていた。
 ずっと以前から気になっていたこと、新田義貞の鎌倉攻めで海が二十余町(2500m)も干上がったという嘘、それが嘘であるなら義貞の主力はいったいどこを通っていたかということだ。たぶん岬の突端ではない。小学生のころ、国道134号を自転車で坂ノ下にむかっていたとき、岬以外にもえんえんと崖がつづいているのを見ておもったのだ。稲村ヶ崎は、岬の突端だけではない。・・・

 稲村道は極楽寺切通ができる前のふるい街道で、「吾妻鏡」や「海道記」などにもみえ、頼朝も実朝もみなこの道を通っている。頼朝が海中から現われた安徳天皇の亡霊を見て、やがて死んだ(保暦間記)というのも、この道のことである。そもそも頼朝や実朝が通るたびに剣を投げ「干潟の奇跡」をおこしていたわけではないのだから、道はべつにあったのだ。

 最近の研究では、道は針摺橋のあたりから稲村ヶ崎と霊山のあいだの、ひょうたんのくびれのような低い部分を越えて崖づたいに坂ノ下におりていたという。つまり【写真1】にみえる鎌倉パークホテルの裏手の崖を坂ノ下におりるスロープの前身だったというわけだ。本来の道はたぶん地震などで崩落したらしいが、そこに面して仏法寺(後出)の大門があったらしい。

 稲村、というのは稲の束を干した状態をいい、黄金色の崖の連続をあらわしている。霊山(霊仙山、霊鷲山)は古代インドのシャカの霊地を模したものなので、おそらく極楽寺に清涼寺式釈迦像が祀られて以降の地名であろう。つまり霊山ももとは稲村ヶ崎の一部だった。稲村ヶ崎の激戦は岬ではなく、主に「もうひとつの稲村ヶ崎(=霊山崎)」でおこなわれていたのである。


稲村ヶ崎の突端。裏手には海蝕洞などもあって、全軍が通れたとはかんがえにくい・・・。



現在、霊山には道がなく、滑落や日没遭難の危険がある。将来、安全な遊歩道ができるまで、立ち入りは絶対にやめてほしい。
 霊山崎、といってもここは岬が海に突き出しているわけではなく、波打ち際までけわしい山が迫っている地形をいっている。鎌倉軍はこの霊山の中腹から、真下の道をゆく新田軍を邀撃(ようげき)していた。しだいに山頂へ追い詰められていく鎌倉軍は、はるか下を前浜に侵入してゆく一部の敵影をながめつつ、絶望にくれたことだろう。

 義貞の「干潟の奇跡(5月22日未明)」を否定する理由の一つに、18日の合戦で先発隊の大館宗氏がすでに稲村ヶ崎を突破して前浜に侵入している事実がある。「梅松論」の記述はこうだ。「未刻(午後2時)ばかりに、義貞の勢は稲村崎を経て前浜の在家を焼き払ふ・・・高時の家人・諏訪、長崎以下の輩(ともがら)、身命を棄てて防ぎ戦ひけるほどに、当日の浜の手の大将大館、稲瀬川において討取(ラル)。その手、引き退いて霊山の頂に陣を取る」。

 主語の解釈がつきにくいが、「浜の手」とは新田軍のことを指し、「その手」とは北条軍をいう。大館軍が霊山に入ったように読む説もあるが、そのような事実はない。潰走する大館軍を七里浜まで追った北条方が軍を返して霊山を固めたのだ。稲瀬川とは長谷をながれる小川のこと。「天野経顕軍忠状」という当時の古文書にもこの日稲瀬川、および前浜の鳥居脇での合戦のことが記され、この第一回突破を裏付けている。

 大館主従11騎の墓とつたえるものは、極楽寺門前からややくだったところにある。大館が行軍した道筋だとすれば岬の突端をめぐったのではないことが、ここからもわかる。


十一人塚。大館以下の勇士を祀る。もとは十一面観音が供養されていたと伝える。



極楽寺絵図に描かれた霊鷲山(古図を学術用にリライトしたもの)。施益院のあたりが今の成就院。福田院は駅前の墓地にあたる。
 霊山の中腹には極楽寺の子院の一つ「仏法寺」の跡があり、近年発掘調査がなされた。この辺りのひとが江戸時代から「日蓮雨乞いの柿経(こけらきょう。経木に書いた法華経)」を掘り出して珍蔵していたらしいが、これは忍性らが祈雨の修法のさいに境内の池に沈めたものだったことが確かめられた。日蓮宗では、日蓮と忍性が雨乞合戦をやったと信じられており、それでこのような混同があったとみられる。廃寺になって久しいために誤り伝えられたらしいが、そもそも「袈裟掛け松」などの霊跡がちかくにあるものの、仏法寺と日蓮とはなにも関係がない。

 かつては仏法寺跡から南へおりる道があって、上述のように大門が稲村道に面して設けられた(現在は崩落)。北条軍は、稲村道が海に面した断崖にでるこの大門の辺で義貞軍の総攻撃を迎え撃つ作戦であった。霊山の頂ちかくには、通称「五合枡」砦といわれる陣地ももうけられていた。

 大館突破の報を受けた義貞は主力を極楽寺口にうつし、要塞と化したこの山と寺とに総攻撃をしかけるため、いまの稲村ヶ崎駅ちかい聖福寺(北条時頼開基、廃寺)に陣を取った。陣鐘山といういいつたえも周辺に残る。極楽寺の宝蔵の右隅に大舘の鞍と鐙(あぶみ)、義貞の陣太鼓の胴と称するものがあるが、古いものであるかどうかは、わからない。

 いっぽう、北条方で極楽寺口を担当していた総大将は大仏貞直だったという。極楽寺をひらいた重時の子孫一門は化粧坂を担当した(当時は浄光明寺、多宝寺がかれらの本拠地だった)。大仏氏の担当は極楽寺口のみならず、おそらく大仏切通の周辺、仲ノ坂から長谷大谷戸辺りにまで及んでいたとかんがえられる。稲村道を自由にするためには、ほんとうは大館のときのように、多方面から急襲して北条軍を釘付けにし、注意をそらす必要があったはずだ。


十一人塚付近から見た霊山。右よりの低いところを稲村道がこえていた。道は鎌倉パークホテルの裏の崖上に出る。


No.17
No.19