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もちださんの鎌倉リポート No.182(2015年12月16日)



No.181
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鎌倉山家記


 「鎌倉山家記」は「鎌倉庵の記(異本)」ともいって、吉川惟足(1616-1695)の著。のちに山崎闇斎の師となった神道学者で、垂加神道の「垂加」とはかれが与えた号だという。

 もとは日本橋の魚屋の養子。商売に失敗し、鎌倉に隠居して古典学者をこころざす。上京して吉田神道を継承・発展させ、仏教臭を排して朱子学にふかく結び付けた。中華主義的な朱子学は徳川幕府の支配理念であり、これを日本的なものへ改良することは、当時の思想界のトレンドだった。朱子学に上方の神道を融合させた惟足の所説は、保科正之ら有力な親藩大名・将軍家の目にとまり、一躍「幕府神道方」を命ぜられるにいたった。

 該書は惟足翁が、御用学者になる以前のすがたをつたえている(本文はおもに山内文庫写本による)。


【鎌倉山家記】

業に嫉みをもうけ、詞に謗りを招く。為すことなく、云ふ事なきにはしかじ。しかはあれど、思ふ事かならず云はずしもあらじ。
やつがれ此山に入て十年あまりの春秋を送る。住む所は五岳の四つにあたれる金峯山(*浄智寺)の麓にして、前に甘露井といふ清水をたたへ、うしろに松岡山を帯て幽栖をしつらふ。柴の戸常に鎖して、樵の斧の響きとる山彦さへに殆々しく、軒端にむせぶ松の嵐の外に、訪なふものなし。
門に柳桃といふ額をかけて鬼をふせぐ。茅屋を梅岡と名づく。遠近の山、四方にめぐり、峯くづれ岡なる所に黒木の鳥居、竹の斎垣に注連引わたし、天神地祇を鎮めまつる。そのわたりしぞきて、ささやかなる藁屋を結び、視吾堂(*あれみのや)と名づけ、常に心をすます。正木のかづらに鳴子をむすび、こととある時は童子をよぶ。


書はおほからねど、日本唐のたぐひ見るに乏しからず。王羲之、米南宮(*米芾、北宋の文人画家)、東坡、山谷(*黄庭堅、北宋の書家)等が石摺り、此国の能書の書けるもあるに任せつ。手習ふとはなけれど、文字の姿の心々に、昔の人を友とするもいとよし。
先師吉田兼従のぬし、陸奥の海より取り出でたる石に、牡蠣といふ貝つけるが様変り、いとおかしきをひとつの硯となし、四明山下の隠士に記さしめ、石花研と呼びて殊に座右に馴らしたまひき。身まかります後は我手に落ちて、此山里のものとなせば、永く師に学ぶ心地して、みじかきさえもいと頼もし。又大原野の長嘯子(*木下勝俊、歌人大名)の案上に年経たる蓬莱の亀の水滴なりしを、その子にいまそがりける兼種は友がきの中にうるはしければ、こや色見えぬ心の色と送りしを、かの硯に並ぶ。
葛かづら、かかる身にさへあはせたき物を、及ばぬ雲の上人の家々に挑みあへるもさすがにて、朝の花の色こそあらめ、香にだに聞けとおくれるをそら焚きし、此山柴の煙に交はるもおかし。又はやうもたる櫛笥の底より、名香すこしく見いでてそら焚きし、袂にとめて閑中になを閑を得たり。


数へつべきものにはあらねど、紙もてつくる夜の衾、ひじきものの外には茶を煮る器物をそなへて、盧仝(*唐の詩人・茶人)が心を汲む。
周り広からねば木の下蔭に茶園を営み、砌に畠をひらきみづから鋤をとりて、淵明が愉しみを覗ふ。かしこに又これらの国に稀なる薬を植へて、俗医のいさをしを補ふこころざし、九牛の一毛よりはかなし。
爪木に樵りし椎のこやで(*小枝)の根ざしあるを見出でて社頭のしりへに植へて、十年余りの程に雲がかるばかり木高く成りぬれば、いつしか実らば拾はましう、頼政卿の歌(*のぼるべきたよりなき身は木の下に 椎をひろひて世をわたるかな)など思ひ出でて、司位こそあらめ、実をだに終に実らざりければ、
 かかる世に椎のこやでのこやとだに 招かれぬ身の恥をしぞおもふ
梅は薄き濃き、八重ひとへ内外に植へて陸放翁(*南宋の国粋詩人)が願ひをみつ。さくら、梨、からもも、李、こき交ぜて植ふ。色ふかみ草は宿に似げなけれど、見るに快し。草花も咲き続かせて四つの時むなしからず。


春はまづ、すぐろの芒(*野焼きの薄原)掻き分けて、つくづくしを採れば、筆試みし昔を思ひ、谷の早蕨萌へ出でて、解くる氷にあらはれわたる。根芹を摘めば、恋すてふ名やたたましと今もつつまし。
ややまつ花の綻びしより、峰続く扇が谷の風ぞ吹かまし、亀が谷の尾上の花は万代も咲かまし。うす花桜匂はずは、それかと雪の下つづく、鶴が岡の花には風もよぎなんと、神垣いと頼もし。
めもはるに、神輿が嶽に連なる山々の花の白雲、よそにのみ見てや止みなんもねたく、移れば変わる花染めの袖、脱ぎ替ふるよりほととぎす、待つに幾夜つれなく明かしても飽かずなつかし。いかなれば鎌倉山は、ここを瀬にせん杉の群立ち(*西行・聞かずともここを瀬にせむほととぎす 山田の原の杉の群立)多かれど、花橘の匂ふ盛りも、声きくこと稀なり。
呉竹の、夜半にくゆりし蚊遣り火の名残り、あしたの軒に白めるは、青葉を埋む雪かとしばし見るほどもなく、差し昇る日影に消へて、土裂くばかり照る六月に甘露井を汲て外面の瓜をしづめ、ありと有るうから(*親族)輩三人四人が限り打ち集ひ、これ良しかれ悪しなど言ひしらひ、をのがじし選り食らふにぞ、夏無き里は願ふに足らず。


秋はなを山柿落ち栗になづさひ、ただならぬ萩の夕風も音高く、空吹き払ふ月の光に、心にかかる隈さへもなく、千里の外も思ひやられ、巨福瑞鹿の峯の紅葉、常盤木に枝差し交はすむらむらの錦も、立ち居る雲の景色を変へて、やうやう雪の深山になれば、鳥の声、松の嵐も音絶えて、寂莫たる戸ぼそに独りうそぶひて、憂き世の夢を覚ます。
いでやあだなる器物は、目に喜びを得るといへども、心を苦しめて求むるに難し。山野の美景は求むるとなしに、をのづから心を養ふ。すべて足ることを知る時は一生安らけし。ねぐらに惑へる翅を見ては、葎の宿も寝を易く寝るに足りぬ。引板に驚く鹿を見ては、淡しき糧も易く食らふに足りぬ。妹が手作りは間遠なれど、葦の穂綿に暖かなれば足れり。これを足らずとすれば、百の宝も足らず。これを足れりとすれば、一つ瓢にも足れりといへり。
 山住みのこと足らぬ身を足るときぞ 憂き世をもなに憂しと思はん (終)


 いくつか難解な歌語の引用がみえるほか、固有名詞には、唐宋の書家・詩人の名が数多くみえる。秀吉の甥である木下長嘯子はキリシタンだったこともあるほか、失脚後も上方の新古典的文化サロンの主要メンバーとして活躍。開け始めたばかりの江戸にはない生粋の文化人だった。惟足翁がみにまとう教養の権威が、どのあたりに由来したかをうかがわせる。

 弟子の山崎闇斎は、師の神道を本場上方で敷衍、垂加神道へと大成していった。惟足・闇斎の神道思想は、仏教色を否定し国粋主義を鼓吹しながらも、ことごとく朱子学思想にもとづくものだった。のちの国学者から、実証主義にもとづかぬ外来思想の恣意的な模倣だとして批判されたのも当然だろう。だが、国学者たちの努力もむなしく、この国から朱子学が廃されることはなかった。当時は滅亡したばかりの明国の遺臣を、学問を通じててなづけるとかの社会事情もあったかもしれない。

 戦前に強要された忠孝教育は、垂加神道にかなり近いものではなかったろうか。つまるところあの愚かしき国家神道は朱子学、もとをただせば天皇ではなく中華皇帝、ないし徳川将軍を忠孝によってたたえるものだった。そしてそれは、かつて世に捨てられ鎌倉の閑雅を愛した、こんな一凡人からうまれていた。


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