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もちださんの鎌倉リポート No.183(2015年12月18日)



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大蔵法華堂跡


 このなにもない場所に北条義時(1163-1224)の墓所・三間四方の法華堂跡が発掘された。もともと伝大江広元墓の参道踊場になっていたところで、頼朝墓のある丘の東の平場にあたる。承久の乱に勝利し、北条時代をきずいた執権の死には刺殺(保暦間記)・毒殺(明月記)、さまざまな疑惑があるが、とりあえず墓だけは頼朝法華堂にならぶ、この一等地にいとなまれた。

 大蔵幕府館は実朝の横死後、失火をうけて廃止され、あらたな将軍館は若宮大路宇津宮辻子に移された1225。大蔵館の場所は八幡宮と荏柄天神にはさまれた神聖な場所である。ただ、父祖頼朝の墓が大蔵館の真上にあるのは風水上、不吉との説がでたためだ。


 清泉小学校のかたわらにたつ「大蔵幕府旧跡」の碑と、頼朝墓下の「法華堂跡」碑をつなぐ桜並木の道は、かつての大蔵館の中心をつらぬいている。頼朝の墓にもかつては法華堂がたっていた。だが木造の堂は焼けやすい。1231年、1280年、1310年とあいついで焼失、宝治合戦には丘が城郭として使用されたりもした。やがて仏教的な思想から、焼失した墳墓堂は再建するひつようはない、との説が出て、墓堂としての再建は止まり、頼朝の廟には五輪塔(江戸期以降は多層石塔)がかわりにおかれるのみとなった。

 法華堂の名は、ほんらいの墓堂とはべつにいとなまれた仏堂にほそぼそと引き継がれ、明治頃まではちかくの寺の古仏などが安置されていたらしいが、神仏分離運動のさい、それも西御門来迎寺などにひきとってもらい、白旗明神社と名をあらためて今に至っている。頼朝を祀る白旗神社はほかにも八幡宮摂社(旧地は上宮の西)など、同名のものがいくつかある。


 義時法華堂跡へは山すそをやや東へすすんだ別の石段をのぼるが、頼朝墓からもいけない事はない。頼朝の塔(レポ15)は急な石段のうえにあるが、平場上は廟堂の火災後に清掃・整地されたらしく、遺構の残存状況はあまりよくないらしい。塔の右奥には背後の尾根筋にのぼる岩根道があり、そこから伝大江広元墓のちかくにでられる。その下の平場が義時法華堂跡だ。近道といえば近道だが、岩盤をきざんだ段々(右)は風化がすすんでいて、雨上がりには無理。

 義時の法華堂も、遺構の状況はかんばしくなかったが、西北隅にちかいところで縁側の束石と雨落ち溝の一部が出土し、本体の礎石痕からだいたいの規模が確認された。現在のところ、その程度のことらしい。戦前には畠になっていて、「方台寺の跡」などともよばれていたという。

 大江広元の墓(下写真中央)は「風土記稿」にも「土人の口碑に伝ふるのみ」とあってあまり根拠がない。わきのふたつは、息子・毛利季光(ひだり・1202-1247)が三浦泰村の妹婿として宝治合戦(後述)に参加したため、島津忠久(みぎ・?-1227)は頼朝御落胤説によって、ここに地縁伝説がうまれたようだ。 


 毛利氏の名字は相模国飯山の毛利荘にゆらいし、藤原景行というべつの没落武士の所領が広元にあたえられ、やがて季光の名乗りとなった。かつて八幡宮の東、鳥合原に飯山権現のほこらがあって、嘉吉三年1443、子孫がそこから広元・季光親子のなを刻んだ銅板・銅鏡を発見、鶯谷に遷座して親子の廟とした。それが鶴岡神官大伴氏の宅地の鎮守祠としてつたわっていたといい、文政年間には毛利家によって再発見、季光墓とする五輪塔もたてられた。のちにはそれも整理され、こちらに移転してきたという1921。広元の墓および関連地はほかにもいくつかあって、十二所の大江稲荷や、明王院五大堂奥の石塔なんかがしられる。

 のちに子孫が各地で戦国大名となって大成した島津忠久や大友能直は出自があいまいで、頼朝の寵臣としてようやく歴史に現れる。母が頼朝の乳母子だとか妾だから目をかけられ、引き立てられたともいわれるが、ともに地方の荘官・地頭としての実務的才能もあって重用されたようだ。後世に子孫の勢力が強大化するにつれ、位階とのつじつまあわせに御落胤などという仮冒もひつようになったのであろう。

 島津氏はもともと摂家・島津庄(日向)の下司であったことに由来する。大友は能直の母方・波多野氏の所領だった相模国大友庄によるという。もっとも、能直じしんは母方ゆかりの中原親能の猶子を名乗っていたらしい。大友氏の墓は扇の井のちかくにあったとされるがいまは不明。


 もともとひとつだった参道はふたつにわかれ、かつて畠だった義時法華堂跡では旧参道を避けるように、反対側のへりを迂回している。墓ふきんではふたつの石段が平行していて、西側のあたらしいほうが毛利用。麓や踊場(義時法華堂跡)に燈籠もたち、鳥居も立つ1877。東側の薩摩(島津)用のものは比較的荒れているが、薩長の石段が競うようにならんでいるのは維新や西南戦争での、びみょうな心隔てをしめすものだろうか。

 燈籠には「覚阿大江公(*広元)御塔前 長藩所管相模国鎮戌諸臣献之 安政五年歳次戊午春正月」などときざまれる。ペリー来航1853のさい、長州藩は相模国防衛に任じられ、稲村ヶ崎などに警護所をおいたが、そのゆかりの者が献納したものとみられる。 

 また踊場の鳥居のわきには三浦泰村一族のやぐらとつたえるものもある。こちらは宝治合戦1247で法華堂にこもり、玉砕したといういわれをもつ。子孫が乏しいため参道などの整備はなく、かなり崩壊してはいるが、いわゆる腹切やぐらなどのように、戦死者をあつめて供養した可能性はある。三浦氏のやかたはすぐ近くの西御門にあって、公暁が雪ノ下から山を越えて潜行したことでもその位置がしられる。


 東御門よりには、さらにもうひとつ石段、といっても藪のなかのけもの道の入り口に過ぎないようなものがある。奥の崖には義時やぐらとされてきた「やぐら」がある。これはさきの三つのやぐらが改装前にそうであったように、おそらく奈良時代の横穴墓で、せいぜい不細工な転用やぐらにすぎないばかりか、「鎌倉物語」(中川喜雲1659)に唐糸が籠(ろう)とされているのと、どうやら同じものらしい。それかあらぬか、大江やぐらを「一説に義時やぐら」「唐糸が籠」とよんだ時期もあったようだ。広元墓と忠久墓が逆にえがかれた絵図もある。

 あいまいな伝承のついた、同じようなみすぼらしいほら穴が、一方は維新の立役者でもある巨大大名・薩摩・長州というスポンサーがついて、立派に整備改装されていった。他方、義時の「やぐら」は荒れ果て、あるいはべつの穴とも混同され、実際の義時法華堂跡もまた「大江公御塔」へのたんなる通り道として、長い間あいまいなままわすれられてきたのだ。

 義時といえばかの承久の乱において、後鳥羽院をはじめあまたの皇族を島流しにした人物。国賊というほどではないにせよ、維新の時代にとりわけ顕彰されるような存在ではなかった。もうだいぶ日もかたむき、藪をかき分けて崖をのぼるには、時間がたりない。どこからかあかとんぼがあつまってきて、羽根をやすめていた。(@11.3)


 大蔵幕府跡の東西をしめす碑がある。東御門川というドブ溝は、かつての築地にそってながれていた溝のなごりなのだろう。江戸中期、八幡宮代々の大工棟梁なるものの大蔵館復元図案1732がのこっているが、近世風であまりあてにはならない。太田清六というひとは寝殿造りを想定しているが、それはちょっと単純すぎる。

 いまでは家もたてこんでしまい、全体像を把握するのはむずかしい。古代的な、整然とした大規模建築はこの時代すでに時代遅れになっていたから、実用重視の殿舎がところせましと建ちならんでいたかもしれない。広大閑雅な山荘ともちがって、将軍の陣所、キャンプ(宿所)として、いろんな機能が凝縮したばしょだったのだろう。


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