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もちださんの鎌倉リポート No.184(2015年12月25日)



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金沢道のつづき・1


 市内をとおる現代の鎌倉街道は、大船小袋谷から北上し、蒔田から16号に接続して関内方面にでるが、「廻国雑記」などのルートでは蒔田付近から帷子(保土ヶ谷)へと向きを変え、「いわゆる下つ道」となっていた。

 近世の東海道においては、江戸からくだって保土ヶ谷宿ふきんでみちが分れ、上述の鎌倉古道とは上大岡で分岐して、金沢八景経由で鎌倉にはいる別ルートが「金沢道」とよばれるようになった。これらは現代の道路地図でも、おおまかには経路がつかめる。


 蒔田堀の内にある宝金剛院青龍山宝生寺は、中世後期に東密(真言)三宝院流の伝法道場としてさかえた古刹。現在は山腹の小堂をのこすのみで、これはかつての潅頂堂1680であったという。ガラス窓からみえる本尊金剛界大日如来は、鎌倉覚園寺からうつしたもの1601とつたえる。

 蒔田には足利氏の分家・吉良氏が蒔田御所としておもんじられた。後北条氏から「お血筋」として利用されたらしく、いまの英和女学園あたりが城跡だったとされる。かつては蒔田近くまで塩入りだったようで、塩田もいとなまれたらしい。近代に開削された掘割川の向かいは山手の台地がつづく。「横浜」の地名は宝生寺文書に嘉吉二年1442の記述(武州久良郡横浜村)がある寄進状が最古、とされるが、当時、元町あたりから横浜のいわれとなったほそい砂洲がのびたひなびた漁村にすぎなかった。砂洲にあった弁天社がいまは元町にうつされ、のこっている。


 山手の台地を切り離した断崖のうえは、いまだ米軍の占領地となっている。アメリカの一部新聞は「日本は軍国主義」だなどと虚偽の報道をして国際世論をあおっているが、軍とは米軍のことだ。かつては基地のまわりで、未明からジープをくりだし、大勢で箱乗りして騒ぐような者もあった。開国・開戦以来、いまだ反米活動家は多いが、周辺国家の活発な軍事路線から、安保のプレゼンスもたかまってきた。フェンスのとりはらわれる日はなかなかきそうにない。

 このふきんは中世、総じて平子(たいらご)郷ともいった。鎌倉の平子(へじ、ひらじ)との関係は不明。平子氏は三浦一党ともいわれ、現在は「ひらこ」姓とよむことが多いという。

 根岸寄りのがけ下には「なつかし公園」とかいう、大正時代のキメラ洋館が公開されている。洋風と和風をはぎあわせた、アシュラ男爵のような建築。かつて風光の地であったこのへんの海岸はうめたてられ、コンビナートがならんだ。東慶寺の旧仏堂なんかもある名園・三渓園のがけ下も、もともとすなはま。いまではユーミンの歌でしられる名物レストラン、ドルフィンあたりの高台からしか、貴重な海面をのぞむことはできない。


 金沢道は三浦半島にくだるとちゅう「杉田道」にわかれる。京急とJRの駅をつなぐ杉田のにぎやかな商店街の裏手には、永仁の鐘1298をつたえる東漸寺がある。まぎらわしい札がかかげてあるが、現在の鐘はまったく無関係のもの。本物は秘仏あつかいになっているものの、禅宗式の釈迦堂はみごたえがある。関東十刹のひとつ。

 名越北条宗長(?-1309)の開基、明窓宗鑑(1234-1318)および円覚寺4世・桃渓徳悟(宏覚禅師1240-1307)の開山。宗長は定長の別称で、名門名越朝時の三男・時長の子とも孫ともいい、事跡は明らかでない。二月騒動で叔父、嘉元の騒乱で息子が死ぬなどなんらかの事情で隠居、ちかくの富岡にすんだという。桃渓は明窓とおなじく蘭渓の弟子で、入宋して仏光禅師無学祖元をともない帰国、うんぬん。

 ここもかつては海水浴場があったらしいが、海はすっかり遠くなっている。貝塚があり、屏風ヶ浦といわれた絶景の地のこんせきもない。一山一寧は「無限の風光、笑裏に看る。歴々の見聞、曾て昧はず」と賞した。


 堂のひだりに開山堂がならび、そのてまえには大型五輪塔をおさめた祠がある。これは古様な凝灰岩製で、三角の火輪がまだ完全な屋根型になるいぜんの様式。通常は風化がすすんでだんごのようになっているが、ここまで当初のシャープな稜線がのこるのは極めてめずらしい。地震などで全体に傷はついたが、風雨にはほとんどあたらなかったようだ。

 凝灰岩は鑿(のみ)でも削れるので、仏師などでも容易に精緻な加工ができた。胡粉や金箔、光明朱などの華麗な彩色もこらされたのだろう。やぐらとか覆い堂がつくられたのは、伊豆石(安山石)をつかう前の脆弱な素材を保護する事情もあったはず。硬質な安山石をつかうには、鏨(たがね)で地道に打ち欠いてゆかなければならず、花崗岩が多い西国での石大工の技術を導入する過程がひつようになった。


 梁牌に創建年代1301をしるす釈迦堂はほとんど改修されているため、当初のものといえるかはかなり微妙らしい。後述の詩板や鐘の実物は釈迦堂内にあるというが、花まつりの日などに開扉されるいがい、かたくとざされたままだ。永仁の鐘は、こんな銘文らしい(「風土記稿」により適宜訓み下し)。

○久良岐の古招提、号して東漸と曰ふ。前主山僧宗鑑、檀門に契するに縁り、蟻窟蜂房を掃ひ、革めて禅刹と為す。・・・住山了欽、独り洪鐘無くて晦明(*時刻)を諭すに病(わず)らふ。自ら一力に成し難きを知り、旁がた衆縁を募り、大器を弁じ既に成るを得る。・・・
時に永仁六年戊戌孟春望日 
  住山比丘了欽謹題
  大工大和権守物部国光

 これによればもともと古寺が存在し、明窓が禅寺としての復興に着手したらしいが、寺では二世・桃渓徳悟を開山としている(下は開山堂)。


 鎌倉時代の詩板は、以前はこの堂にがかかげられていた。詩板には無学祖元、東明慧日、一山一寧、大川道通、南山士雲、約翁徳儉など他の名僧たちにまじって、明窓や桃渓、了欽の名もきざまれている。明窓が建長寺の唐僧・無学祖元や葦航道然らを招いた段には弘安六年1283の年記がみえる。また円覚寺の唐僧・東明慧日や南山らが訪問したのは辛亥のとし、これは応長元年1311にあたる。了欽の住持は鐘銘から1298。明窓はやがて京都に去るが、かれらはほぼ同時期にこの寺をあずかっていたらしい。

 ざんねんながら開基・名越宗長入道については、とちらにも記載がない。一族には鎌倉大町に名越長福寺という氏寺(廃寺)があり、「名越備前禅門代々墳墓之地」とつたえる。備前禅門は宗長のことらしく、子孫には長福寺がつたえられ、東漸寺はかれ一代の称号だったようだ。


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